投稿日:2020年06月12日

事務局通信~隔離と差別

「新型コロナウィルスへの感染が判明した人は社会から差別や誹謗中傷を受けても仕方がない」と考える人はそれほど多くはないかもしれません。しかし「新型コロナウィルスに感染した人は強制的に隔離した方がよい」と考える方は少なくないと思います。

 社会から隔離するという施策はいつの時代にもありました。精神障害の当事者の方は社会の秩序と安全を守るために精神病院に隔離されてきました。ハンセン病の当事者の方も療養所に隔離されてきました。いつの時代も、国民を少数の当事者と多数の非当事者とに分断し、非当事者の安全・安心のために隔離は正当化されてきました。さらにそこには必ず差別が伴っており、本人のみならず親兄弟親族に至るまで差別の対象とされてきた歴史が連綿と続いています。

「隔離はすべきだが差別はいけない」という考えは一見筋が通っているように思えます。しかし、隔離というのは「社会にとって危険な人」というレッテルを貼ることに他ならず、その意味で、隔離すること自体が多数の人の安全・安心を守るという名のもとに公然と行われる差別、とも言えます。

 今日差別という行為は、建前では禁止されていますが、差別感情がなくなったわけではありません。「よくわからないもの」「自分とは異なるもの」「自らの生活を脅かすもの」に対して不安心理から差別感情が生じたり、社会に対する不満を解消する手段として差別行為が必要とされたりします。表面的には見えにくくなった分、より陰湿になった面もあり、SNSや掲示板で匿名による差別的な発言が跋扈する背景のひとつもここにあるのかもしれません。

 ところで、インフルエンザは年間で3000人もの方の命を奪う大変な病なのですが、感染された方が差別や誹謗中傷の対象になることはあまりありません。それは、ウィルスの正体が解明され、ワクチンや治療薬も存在し、感染しても隔離されることがなく、政府やマスコミで大きく取り上げられることも少なく、年間で国民の13人に1人が感染するという身近な病になった結果、私たちがあまり驚かなくなった(怖いと思わなくなった)、ということなのでしょうか。

 「差別感情」というものは、誰もが持ちうる自然発生的なものです。もちろん理性によってある程度コントロール可能なものだとは思いますが、「差別はいけないことだからやめましょう」などという倫理的な説教で消え去るものでもありません。危機的な状況になった時、水面下にあった差別感情が表面化したり、むき出しになることも歴史的に繰り返されてきたことです。「よく知って慣れる」ということで多少緩和される可能性はあるかもしれませんが、そのためには長い(時には数世代に渡る)時間が必要かと思います。

「新型コロナウィルスに感染した方の8割はウィルスを他者に感染させていない」
「(発症ではなく)感染してから12日が経過した方は感染性(他者に感染させる可能性)は少ない」
「新型コロナウィルスに感染した方の8割は無症状か軽症」
といった研究成果も出てきています。もちろんまだまだ分からないことも多い未知のウィルスであるため、確定的なことを言える段階ではありませんが、徐々にその正体が明らかになってきていることも確かです。
 
<<進む戻る>>