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 大阪の西淀川区に、バッテリー(鉛蓄電池)をリサイクルする工場がありました。大型トラックや小型トラックに満載された中古バッテリーが次々に運び込まれ、トラックスケールで重量を計った後、人の手で大きさ別にパレットに乗せ、分別していきます。バッテリーの電極を取り出して、大きな坩堝(るつぼ)で溶かし、溶けた鉛を鋳(い)型に流し込み、インゴット(溶けた金属を固めた物)にしてバッテリーメーカーに納めるわけです。プラスチック容器は再利用され、中の電解液はアルカリで中和されます。硫酸の鼻にツンとくる刺激臭と、晴れていてもいつもほこりっぽい空気の感触がありました。
 「ジーパンはあかんで。綿のズボンはやめとき、酸でボロボロになるわ。わいのような化繊のペラペラはかんとあかん」。お世話になることになったS商店の親方から言われました。
 ある時「福祉」の世界が嫌になり、「福祉」をすることで給料をいただくことから距離を取ることで、自分なりのバランスを保ちたいという思いがありました。
 それで、古バッテリー、銅や真ちゅうくず、ビニール被まくをはがした銅線、アルミの古なべかま、アルミ缶、解体したアルミサッシ、自動車やバイクのキャブレター、流し台のシンクなど、鉄以外の金属くずを扱う「非鉄金属商」の親方に、知的障害の人たち三人を私が面倒を見るという条件で、私を含め雇ってもらうことになりました。
 「車の免許は持っとるな。ほな明日から二dトラックに乗ってもらうさかい。そのうち慣れたら四・二五dのLLボディーのトラックに代わってもらうわ」。中古のバイクこそ自分で持ったことがあるものの、引っ越しのレンタカーくらいしか車の運転をしたことのない私にとって、別の意味で大きな試練でした。
 「尼崎に行ってバッテリーくず、引き取って来てくれるか」と言われ、知的障害のO君と出かけて行って、何と四dものバッテリーくずを積むことになりました。当然ながら積載オーバーです。
 「ほな親方にも話しとるさかい、七でな・・・」。一`七円、四dで二万八千円を支払って買ってくるわけです。「そんなん言われても、それやったらガソリン代にもならしまへん。勘弁してください」。そう言ってやりとりするわけですが、、納め価格がどんどん下落していて、結局一`八円、一円の利ざやしか取れませんでした。半日かかって四dのバッテリーを積んで、運んで下ろして、何と四千円。私の給料とO君の給料とトラックの軽油代、親方の取り分などを考えると、とてもやっていける商いではありません。顔に飛び散ったバッテリーの希硫酸がヒリヒリと痛み、腕の筋肉がヒクヒクけいれんしています。アクセルを噴かせてもなかなか前に進まないトラックの横で、O君が汗いっぱいになりながらぶつぶつ私に話しかけます。「大人になったら仕事せなあかんな。ブラブラしとったらあかんな。ブラブラするのは子供の時やな」。そう言いながらもなかなか一般就労の厳しさについてゆけず、脱落していったO君がありました。
 「まあ、そういう時もあるわ。悪い時もあればいい時もあるさかい。ほんでも体動かしとったら飯がうまいがな。声を掛けてくれんようになったら、わしらの商売あがったりや」。そう言う間も、休む暇なく手を動かす親方の後ろ姿に、敗戦後の日本を支えた"精霊"を見る思いがしました。
 この辺り一帯には、在日朝鮮の人たちの住宅が数多く建ち並び、ほんの少し前までは公害日本一と呼ばれた地区だったと、それから少し経って知りました。
(徳島市入田町月の宮)
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