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 「自然な心の発露」と書かれた石碑が、私たちの月の宮作業所にあります。太陽と緑の会の創立者、近藤文雄が残した言葉です。
 「『自然な心』って何かいな・・・」と、首をかしげるというより、そんな心自体を凝ってしまうことの方が多い今日このごろです。晩年、西田幾太郎の哲学に思いを寄せ、仏教や禅の造詣(ぞうけい)も深かっただけに、説明されればされるほど、余計に訳が分からなくなってしまう私がありました。
 私自身、「人生とは・・・」と語るほどの人生を送ってきたわけではなく、どちらかといえば、才能も自信もなかっただけに、むしろ「こちらの方向より、こちらの方向の方が、まだ自分としてはやっていけそうだ」というような消去法的選択の末に、今の自分があるように思えてなりません。
 その意味では「自分の夢」とか「自分のやりたいこと」とか「自分の将来」や「自分の人生」に自信を持って、ポジティブに、前向きに歩んできたという実感はあまりありません。むしろ自信がなかったからこそ、こんな活動をすることになってしまった、と言ったほうが正直なところかもしれません。
 「人間って、本当に嫌だな」と、ある時、自分自身も含めて思えてしまうことがあります。
 「人間の深層をたどっていけばいくほど、絶望的にも、その底に激しい攻撃性と、どうしようもない猜(さい)疑心を見いだしてしまう」というようなことを、精神分析の祖と呼ばれるジクムント・フロイトが述べていたと思います。ヒューマニズムなど、うそくさく思えてしまい、私自身「本当にそうだなあ」と思ってしまいます。
 ただ私のように、普通一般的な枠組みから少々外れたところでやっていると、「こんな厳しい状況で、よくぞ『自分』を保っておられるなあ」と感じさせてくださる人たちとの出会いがあります。
 また、もう二度と回復や復帰はあり得ないのでは、と感じさせられた方々の、奇跡的と思えるほどの立ち直りがあります。そのことが自分に返ってきて、私自身も背筋をピンと伸ばさんとあかんのと違うやろか・・・、と感じさせられます。
 当然、その逆の出会いも多く、それはそれで随分つらい思いをしますし、そのことで、またまた人間不信になったりもします。ただ、このように実践を続けていくことで、「人間って、まだ捨てたものではないな」と思わせてくれる人たちとの、偶然と思える出会いがあり、そのことで自分自身、納得しながら、自分を支え、保っている「私」がありました。「絶望の中の希望」とでも言えるのかもしれません。
 ひょっとすると、このあたりが「自然な心の発露」ということとシンクロナイズしているかも、と一人勝手に思いを寄せています。
(徳島市入田町月の宮)
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