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徳島新聞「ぞめき」原稿   杉浦良
No.78 タイトル「新聞に思う」

 新聞週間では「『とくしん』に望む」(徳島新聞)をはじめ各新聞社が新聞にまつわる特集を組んでいました。視覚や聴覚に訴えるテレビに比べれば迫力に欠け、スピードではインターネットに太刀打ちできない新聞は、これからどう生き抜いていったらよいのか、ということでしょう。
 「ニュース媒体としての新聞は影が薄くなっているが、新聞紙は物を包んだりパッキングに重宝するし、キャンプの火おこしには必需品。新聞紙のリユース、リサイクル率は優等生よ」などと言う人もいますが、それはさておき・・。
テレビやインターネットなどと大きく違う点の一つに「新聞記者」の存在が挙げられます。テレビ記者、インターネット記者はあまりなじみがありませんし、雑誌記者は明らかに新聞記者のイメージとは一線を画しています。
 「ブンヤ」など呼ばれた昔と違い、巨大マスメディアの旗手として活躍する今の新聞記者は違うよといわれるかもしれませんが、私の中では「正義感はあるが、一般企業でバリバリやるほど直進的ではなく、やや目線を斜めに構えながら、どこかでこの社会を少しはまともにできないかと、一人ひそかに心で感じている人」といったイメージがあります。
 ある方は「二・五人称の視点」を持てる方が新聞記者として最適だ、と。加害者は一人称、被害者は二人称、そのほかの人は三人称。被害者の視点で報道されることの多い中、被害者の苦悩に寄り添いながらもそこから少しだけ距離をとって、その事件の全体像を伝えていくといった職人技こそ、新聞記者冥利に尽きる、ということなのでしょう。
 事実をきちんと伝えるということは大切ですが、それだけでは面白味がありません。被害者の痛恨や憤怒を伝えることは大切ですが、それだけでは情動に流されてしまいます。加害者の背景まで視野に入れながら、被害者の苦しみや怒りに共感して事実をしっかり伝えていくこと、そして記者自身の心の揺らぎやうろたえを散りばめつつ、決して絶望を語らない・・。
 つらくて悲しい事件が多い中、そんな新聞記者が書いた新聞紙面は、決して消えることはないはずです。(杉)


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