「代表のつぶやき」―訃報から学んだこと―
R5.1.26
(特非)太陽と緑の会 代表理事 杉浦良
あすなろ作業所(那賀町)の所長だった山崎秀さんの逝去を知ったのは、亡くなってしばらく経ってのことでした。「そろそろお迎えが来るような気がするし・・所長を辞めるから連絡協議会も辞めんといかん・・」そんな電話が掛かってきました。言葉に忠実であるよう、あの世に足早に行かれました。残念ながら焼香も出来ないまま、山崎さんとの巡りあわせを振り返る日々がありました。
「わいはな、学歴もない、ただの飲んだくれやけど・・」そんな語りから、山崎さんの辿ってきた人生を聞かせてもらいました。
「親父から・・酒が弱くては仕事もできん、そう言われて飲んべえになった・・子供を施設に預かってもらえるようになって、週末に迎えに行くと、帰れん他の子供がいっぱい出てきて、わいらを見送るんよ・・その何とも言えん切ない目が忘れられんのよ・・だから子供を施設から家にもどした・・他の親たちからは、入所待ちで、なかなか入れてもらえん施設からもどす気持ちがわからん・・そう言われるんよ・・悲しいわ・・やっぱ地域に障害者の作業所がいるんよ・・本人もわいらも、そりゃ色々あって大変だったけど・・厳しくしたので、子供が一番大変だったわな・・」そんな言葉を思い出しました。
山崎さん亡き後、新型コロナ禍もあって、あすなろ作業所との距離が遠くなったと感じられた頃、地元新聞の訃報欄に美馬八重子さんの名前を見つけました。美馬さんを軽ワンボックス車に乗せ、あすなろ作業所にお邪魔したことを思い出しました。徳島県作業所連絡協議会の会長は山崎さん、副会長を美馬さんにお願いしていた関係もありました。
そんな時「美馬八重子さんの追悼文を書きませんか?」有難い電話をF新聞記者から貰いました。この際、山崎さん美馬さん2人分の追悼文が書ければ良いのですが、そうもいきません。そんなことを思いながら書いた文章です。
「美馬さんと連絡がつかなくなって久しい。残念ながら新聞の訃報欄に名前を見つけた。美馬さんとの出会いは印象的だった。あすなろ作業所(那賀町)の今は亡き山崎秀所長から「徳島県障害者地域共同作業所連絡協議会を作らないか?」と誘われ、精神障害者の作業所にも参加の呼びかけをした。精神保健福祉領域で、美馬さんの名前を知らない人はモグリだと言われていた頃だ。
「精神障碍は知的障碍や身体障碍とは違うんよ・・なかなか一緒にはやれんと思うよ・・歴史も違うし・・」と、なかなか良い返事がもらえなかった。
「・・そこまであんたが言うんやったら・・あんたの所と、すみれ会は、県内作業所一番の老舗だからな・・」三顧の礼を尽くすと、そんな言葉でお付き合いが始まったと記憶している。
老舗とは名ばかりで、ハンディを抱えるメンバー達が通う無認可作業所への補助金は、当時徳島県に無かった。自力スタートするしかない当会や、家と病院しかない現実に頭を抱えた保護者や関係者の労苦で、ようやく開所にこぎつけたすみれ会の方が、大いに異色だった。
「一緒に乗っとったフェリーから・・姿を消したんよ・・娘が・・」付き合いが深まった頃に、そんな言葉を聞かせてもらった。突然いなくなった娘さんの存在が美馬さんの心に圧し掛かっているようだった。心の病に苦しんでいた本人と見守る母親。不調の日々が続くと、本人も家族もそして一番身近な母親が苦しんだ。その存在自体が無くなれば楽になれる、そう思う瞬間もあったと告げられた。しかし本当にいなくなった時、その現実がさらに苦しみを深めることになる。
そんな頃、すみれ会や精神障害者家族会の仕事がやってきた。無給に近いこの仕事は私の罪滅ぼしだ、どこかでそう思われていたのだろうか。全身全霊を掛け精神障害者支援活動に取り組んだ。そのパワーに圧倒された人達も多いだろうが、向かう方位に当事者の姿やその家族の姿がしっかり存在することを、いつも感じさせてもらった。そう感じ取ったのは私だけではないだろう。座学ではとても学べないことを、たくさん教えてもらった。それは精神保健福祉に関わる人たちの、確かに専門性は高いだろうが、向かう方位に当事者や家族の姿を感じ取ることが少なくなったと感じる今日この頃、特にそう思うのかもしれない。心より冥福を祈ると共に、感謝の気持ちが今溢れている。」(2023年1月17日朝、擱筆)
こんな雑文を載せて頂きました。座学では学べないことを、山崎さんそして美馬さんから学ばせてもらいました。そんな経験が「現場から離れたら、あんたはオシマイや・・」そうどこかで感じてしまう背景にあるのではと、自己分析しています。
この1、2年で旅立った櫛田さん、三好さん、宮崎さん、松下さん、石井さん・・太陽と緑の会に関わってくれた方々、そして山崎さん美馬さんたちの想いを背負いながら、トボトボ歩く1年でありたいと思います。