太陽と緑の会には様々なハンディを持ったメンバーさんが通ってきています。ハンディの種類も身体・知的・精神と様々で、年齢も30代から70代までと幅広く、男性もいれば女性もいます。できることとできないこと、得意なことと苦手なこと、好きなことと嫌いなこと、性格もひとりひとり違います。
また同じ人でも、いつも同じ顔を見せているわけではありません。相手によって見せる顔は異なるし、体調や精神状態によっても表情が異なったりします。「〇〇さんはこういう人だ」などと簡単に言えないからこそ、
人間は奥が深いのでしょう。
そんなこと当たり前の、誰でも知っていることかもしれません。ただ「どういう人か分からない」という不安定な、心が宙ぶらりんで落ち着かない状態に耐え続けるより、単純化して決めつける方が精神的には楽かもしれません。
「決めつけるのはいけないことだからやめよう」などと思ったところで、自分の内面を完璧にコントロールすることは難しいでしょう。「今自分は少し決めつけているところがあるかな」と気づくことはできるかもしれない。そのぐらいの緩やかなバランスの方が長続きするかもしれません。
「偏見や固定観念はよくない」
タテマエではそうかもしれません。ただ残念ながら、無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)や固定観念を持っていない人はいないのではないか、と思います。
例えば初対面の人に会ったとき、その人がどんな人なのか、限られた情報から判断していくことになるかと思いますが、その段階ですでに偏見、固定観念というものが介在してきます。「人は見た目が9割」などと言うとビジネス書のタイトルのようですが、
外見は重要な判断材料となります。しかし外見で人を判断するということ自体が
偏見に基づくものです。
「ボクと同じ年頃の、中年の病院の職員らしき男性が首に手ぬぐいを巻き、着古した
背広を作業着にして、花壇の手入れをしていた。
『お約束は戴いておりませんが、病院長にお目にかかりたいのです。何処でお願いすればいいのでしょう。』と聞いた。
『玄関を入って左側に受付があります。そこに申し出て、二階の院長室に案内してもらいなさい。』と返事が返ってきた。受付の
青年がスリッパを揃えてくれた。
『これが国立病院の院長室か?』
本棚に医学書が並んでいるだけで、これといった装飾のない質素な部屋であった。
暫く待った。さっきの中年の男性が入って
きた。
『院長の近藤です』と挨拶された。
ボクはあわてふためいた」
(太陽と緑の会かわら版59号(1994年))
柳澤壽男映画監督の寄稿文の一節で、
当時仙台の国立西多賀病院の病院長だった近藤文雄(のちの太陽と緑の会創立者)の人となりが伝わってくるエピソードです。
偏見という言葉には否定的なイメージがありますが、「その人がそれまでの人生の中で見聞きしてきたことや成育環境などを背景とした思い込み」くらいに考えてみると、至る所に存在するもののように思えてきます。
「誰か男の人おらんで?」という声。
お買い上げになったリユース品を車まで運んでほしいというお客様がおられました。
「力仕事は男性の仕事」という性別役割文化の名残かどうかは分かりませんが、幼少の頃から己の心身に染み込んでいる価値観というものは、誰にでもあるものです。
ちなみに作業所の男性のメンバーさんは、冷蔵庫やタンス等の重いものも持てる体力自慢のメンバーさんもいれば、軽い物を持つのがやっとというメンバーさんもいます。
「物を運ぶのはしんどいから嫌だ」と言うメンバーさんもいます。男性のメンバーさんがそれを言ったら「男らしくない、男のくせに」と非難されるでしょうか。
「AさんがBさんに暴力をふるった」という話を聞いた時、このAさんとBさんの性別はどちらだと思いましたか。というと、テレビで目にする公共広告のフレーズみたいですが、身長148cmの女性のメンバーさんが175cmの男性職員に向かって罵声を浴びせながら飛びかかり、着ていたTシャツをビリビリに引き裂き、腕に歯形が残るほど強く噛みつく、というケースが実際にあります。
(何か怒らせるようなことを言ったのだろう、という邪推も無意識の偏見に基づくものと言えるでしょう)
ダイバーシティ(多様性)という言葉を耳にすることが増えたように思います。「多様性を尊重する」などと言ったりもしますが、「暴力の加害者は男性」という多数事例の存在をもって少数事例の存在に目をつぶる、少数を無視して一般論で物を語る、
ということは多様性を否定することです。
多様性の尊重は、百人の持つ百の正義がぶつかり合う熾烈な戦いの幕開けであり、自分と異なる相容れない価値観も認め、
折り合いをつけていく実に難しい営みだと思います。容易にできることではなく、長い年月をかけて、時には数世代かけて変わっていく、というものもあるでしょう。
思い込みを否定したり、すぐに変えたりすることは難しいと思います。ただ、思い
込みに気づくことはできるかもしれない。
「慌てず、焦らず、諦めず」「できること、気づいたことから少しずつ」という緩やかなスタンスで持続していくのが「ええ塩梅」
なのかもしれない、と思う今日この頃です。