毎朝、新館2階の女性用トイレを掃除してくれている、レジ担当メンバーのAさんが、少し困ったような表情で相談に来ました。床排水のワントラップの水が流れなくなったようです。
「以前詰まったときに、杉浦さんがやっているのを見たことがあったから」と、ワントラップの皿を外して、ゴミを取り除くところまでやってくれていました。
中を覗いてみると、鉄製で釣鐘状のワントラップワンが錆びついて固着していました。本来は取り外しができるのですが、びくともしません。
錆をこそぎ落として、ワントラップワンがスムーズに脱着できるようになり、無事水も流れるようになりました。
スタッフが気づかないことをメンバーさんが気づいてくれる。太陽と緑の会では当たり前の光景ですが、指導する側される側、支援する側される側という、立ち位置が固定した関係の中からは生まれにくいものかもしれません。
作業所に通い始めて30年、今ではレジの作業やパソコンの入力作業を中心にいろいろな作業に主体的に取り組んでくれているメンバーのAさんですが、Aさんの現在の姿は、教育、指導、訓練の成果かと問われれば、それは少し違うように思います。
「教育、指導、訓練によって、少しずつ力をつけ、できなかったことができるようになる」といったストーリーは、一見もっともらしく思えますが、現場の実感とは違う、というのが正直なところです。
「地域社会の中に存在し、世間に対して開かれていて、少しだけ囲っているところもあって、お子さんから高齢の方や外国人の方まで、幅広い一般市民の皆様と日常的に関わりがある場所で、自分にできることをやり、できないことは助けてもらうという関係性の中で、様々なハンディをもったメンバーや職員、ボランティアと共に働く」という営みの中で、AさんがAさんの人生を、悩み、苦しみ、壁にぶち当たり、折り合いをつけながら、歩んできた結果が現在の姿、ということなのだと思います。
今の自分にできることを、自分のペースでやっていくことで、その人なりに立っていく。
「できなかったことができるようになる」というのは、その人なりに立って歩いてきたことの結果にすぎず、決して目的ではありません。「できるようになること」を目標として強調しすぎると、「できないこと」「できない自分という存在」がネガティブに受け取られてしまう危険性が生じます。
階段を上るようにできることが少しずつ増え続けていく、ということは、現実的にはありません。それまでできていたことができなくなる、ということもありますし、老いを迎えるようになると、むしろそれが日常になってきます。
「困難に負けずに」「ハンディを乗り越えて」といったフレーズを耳にすることもありますが、(当事者の方が自ら発する場合は別として)誰の目線で言っているのだろうかと思うことがあります。
困難には負けてはいけないのか。ハンディは乗り越えなければならないのか。それは他者が決めてよいことなのか。
メンバーさんの人生はメンバーさんのものであって、職員のものではありません。
「教育、指導、訓練」という言葉には、する側とされる側との間に明確な区別があり、いかなる美辞麗句を散りばめても、上下関係が介在してくる可能性は否めません。そこに危うさが存在します。
様々なハンディを持ったメンバーとの関わりは、「寄り添う」とか「共に歩む」といった生半可な言葉ではすまされない、互いの全人格がぶつかり合うギリギリの瞬間も存在します。自分だけ安全地帯にいて、高みからあれこれ言ったりやったりするのは、「専門性」という名のプライドも保たれて楽かもしれませんが、そのような狡さは、こちらが気付いていなくても、すぐに見抜かれてしまうものです。