今、福祉を問う (28) 近藤文雄

幸せは価値観確立から

 幸せは当人とそれを包む世界の相互作用の中に生まれるもので、どちらか一方によって決定されるものではない。
ただ前回は、便宜上、特に当人の立場だけを取り上げてみたまでである。更に話をすすめるために、これから、幸せとは何かという根本問題から出直してみることにしよう。
 人間は生きている限り、様々な欲求を持つ。その欲求を満たそうとして様々な活動をする。それが生きる、ということである。死はその欲求が全くなくなった状態であり、何の欲求も持たない生きた人間はいない。
 欲求は満たされることを望む。欲求が満たされれば満足して喜び、満たされなければ不満に思い、悲しんだり怒ったりする。
 幸せの根本は欲求の満足にある、と考えてはどうであろう。
 ところで、この欲求が一つしかない時には問題はないが現実には種々雑多な欲求があり、それも時と場合によって次々に変化して止まる所を知らない。したがって、欲求が互いに競合し、時には同調し時には矛盾対立して収拾のつかない状態が出現する。だから、一口に欲求を満足させるのが幸せだと云っても、その内容は決して簡単ではない。人の世の複雑怪奇な姿はこの心の中の葛藤の現われと云ってよい。
 人が数多の錯綜した欲求のままに行動するとしたら、その人の言動は支離滅裂、精神分裂症のようになるであろう。動物は本能の命ずるままに行動するが、本能の命令は単純であるから余り混乱することはない。が、人間にはなまじ知恵があるから欲求が競合して行動が乱れ、極端な場合には自殺などという本末顛倒した行動をおこすことになる。それを避けるためには、この複雑な欲求の群を整理して優先順位を決める必要がある。欲求を整理するには何らかの方針がなければならぬ。その方針が即ちその人の価値観であり人生観である。ところが自己の価値観をこうとはっきり云える人がどれだけいるだろうか。ここに問題がある。
 何故こんな重大な問題がなおざりになっているのか。我々は日常生活に追われて物事を深く考えることなく、惰性によって処理する癖が身についているからである。それで大過なく過ごせると思っているし、一見そのようにも見える。しかし、このやり方は極めて危険であり、人生を棒に振る程の誤りを冒しながらそれに気づかないだけ、ということもあるであろう。
 現代の社会は物質的には曽てない繁栄をおう歌し、人々の生活は多忙を極め、落付いて物を考える暇がない。また人並に忙しそうにしておれば安心できるという所もあるようであるが、それは由々しいことである。
 幸せとは何か。幸せになるためには人はいかにすればよいか、という基本的なことは子どもの時から考えねばならない。そのように指導し、そのような環境を子どものために準備しなければならぬ。それにも拘らず、現代の社会も学校も、家庭もその責任を十分果たしているとは見えない。現代社会の最大の欠陥がここにある。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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