快楽より理想追及を
紙には裏と表があって、表だけの紙や裏だけの紙はない。紙の表と裏は一つになっていて離すことはできないからである。それと同じように、楽と苦は対になっていて両者を切り離すことはできない。楽だけの人生、苦だけの人生はあり得ないのある。楽は苦に対し、苦は楽に対して存在するもので、一方だけでは意味をなさなくなる。それは丁度山と谷の関係のようなものである。ある地形の高い部分を山といい、低い部分を谷と呼んでいるから、山を削り谷を埋めて平にすれば、山がなくなると同時に谷もなくなる。山のない谷、谷のない山があり得ないように、楽のない苦、苦のない楽はあり得ないのである。
このように、苦楽は相対的であって、楽という気持ちは以前に経験した苦に対比して生ずるもので、同じく苦も楽に対比して感ずるものである。一見楽ばかりしている人がいるようだが、実はその人の苦しみが見えないだけである。同様に苦しみばかりしているように見える人にも、それなりの楽しみはある。だから、実際に各人が感じている苦楽には見かけ程大きな差はないと云ってよいであろう。
そんな比較などせずとも楽しいものは楽しい、苦しいものは苦しい、という人のために次のような例をあげておこう。
激しい腹痛をおこして七転八倒している人が注射によって、ああ楽になった、という時、その人は確かに楽だと感じている。健康な時に比べればまだ痛みはあるが、始めの激痛に比べたら大変楽になった、と感じているのである。また、潜水艦で長時間海中に潜り、艦内の空気が汚れて息苦しくなって浮上した時、外の空気を吸って生き返ったような感じがするという。その時、新鮮な空気がこんなに旨いと初めて知るのである。我々は平常いい空気を吸っていながらちっとも旨いとも有難いとも思わない。楽ばかりでは楽は分からない、いや楽はないのである。
考えてみれば、これに類したことはいくらでもある。この道理に気付きさえすれば、人生には有難いこと楽しいことが溢れている・・・ことを知るであろう。
仏教では人生苦であると割り切っているが、そんなことはない。人生には楽しいことがいっぱいある。と反論する人もあろう。それはその通りであるが、楽を求める以上はその裏に喰いついた苦も一緒に受けとらざるを得ない。盛者必衰、会者定離の悲哀は人の世の常であって、盛える者、愛しい者を持つ人間にとってそれを避けることはできないからである。それでも、どうしても苦はいらないという人は、苦と同時に楽も返上すればよい。そうすれば苦から完全に縁が切れるはずである。この苦も楽も捨てた覚りの世界に対して、苦も楽もあるこの世を、仏教は一言で苦といったのであって、この世は苦ばかり、と云っているのではない。
それにしても、苦のないのはよいが、楽がない世界とは何ともやり切れない。そんな世界には魅力はない、と悲観するのは早すぎる。人生には感性の満足による快楽よりずっと高尚な理想の追求、という生き方がある。その中にこそ、人間が真に人間たるにふさわしい生き方をする道がある。理性を欠き感性に溺れた生き方は人間と動物のレベルに引き下げ、人間の誇りを放棄するものである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)
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