最高の理想・人格の実現
人間の幸せは各人の持つ理想の実現にある。したがってより高い理想をより多く実現することが大きな幸せへの道と云ってよかろう。
元来、人間の欲求は生の営みの中から生まれてくるものであるから、諸々の欲求は、個々、独立に存在するものではなく、互いに関連を保ちつつ一つの体系をなすものである。したがって我々は、一種の欲求が一時的な欲求の満足では飽き足らず、すべての欲求を一つの調和のとれた全体として実現されることを求めているのである。
これを例えれば、音楽や絵画のようなものである。種々の楽器から発する様々な音も調和すれば優れた交響楽となり、雑多な形象の並ぶ画面も調和によって名画になるように、我々の雑多な欲求も、秩序ある体系に統一すれば、そこにすばらしい生の充実、大きな幸せが実現するのである。その際、すべての欲求が実現されるとは限らず、あるものは強調され、あるものは抑圧されてそこにえも云われぬ見事な調和が出現するのである。我々の最大の理想はここになければならぬ。
この統一は我々本来の意識の根底にあって、活動している意思の働きである。その意志は、精神活動の根源であって、すべての意識現象はこの意志の発展したものである。この最深なる統一力のいわゆる自己であって、その意志の発展完成は直ちに自己の発展完成である。意志の根底には先天的要求があり、その要求が目的概念となって意識の統一をするのである。我々人間にとって、この最も深い自己の内面的要求程権威のあるものはない。
理想の統一の仕方には、人それぞれ、その人ならではの個性がある。それはその人の人格とも云うべきもので、単なる好き嫌いとか、習慣とか経験とかいう表面的なものを越えた、その人の人間性の最も深い部分となっている。いわば精神のDNAのようなもので、我々に絶対の満足を与えるものは、この自己の個人性の実現である。その例を示せば。
同じ天下を取るにも、信長と秀吉と家康でははっきりした個性の差が現われている。シューベルト、バッハ、ベートーベンの音楽にはそれぞれ独自の世界が展開しており、梅原と安井、ピカソとマチスゴーギャンの絵には一見して分る個性の違いがある。
この個性は、その人の表面的な意識や希望を取り去った時、即ち、自己を忘れ切った時に最もよく現われる。生酔い本性たがわず、という俗説はこれを指しているのであろう。西田幾多郎先生は、技を磨き尽した芸術家が三昧の境地で制作した作品にその人の真の人格が最もよく現われていると云っている。構図がどうの色がどうのと考えている間はまだ不充分で、興至り筆自ら動いて出来た絵にその画家の真髄が一番よく表われるというのである。
我々の心の奥底には、我々の魂ともいうべきこの統一力が働いている。この統一力を人格というなら、この人格の実現こそ我々最大の欲求、即ち、理想でなければならぬ。換言すれば、我々の最大の幸せはこの人格の実現にある。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)
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