今から二十五、六年も昔のこと。まだ幼顔の私が、大学の正門をくぐろうとしたところ、女性二人組みに声を掛けられました。「あの、学生会館の306号室で今週、説明会があるんですが、よかったら来てください」。
もらった一枚のビラには、ボランティアサークルの名前と、「子供たちと遊びませんか」というキャッチフレーズが書かれてありました。大して関心もないまま、ごみ箱行きとなったビラを数日後、同じ場所で見ることになりました。「あの・・・、よかったら来てください・・・」。同じ二人組の女性でした。
 当時、理科系の教室には、女性がほとんどいなかったことが別な関心を生み、ふらふらと306号室に足を向ける結果となったようです。自己紹介をした後、「では、今から素晴らしい所に行きますので市バスに乗りましょう」。そう言われ、右も左も分からないまま、林で囲まれた郊外のバス停に着きました。
 「さあ、ここです。下りてください」。暗やみの中で鉄の扉が開けられ、私を含む五、六人の新入生らしき若者は、オドオドしながら中に入りました。
 「お兄ちゃん、名前は?どこから来たの?家はどこにあるの?」。矢継ぎ早の質問と、何本もの手に引っ張られながら、廊下を渡り、階段を上がりました。すると、前から走って来た男の子の握りこぶしが、私の口めがけて飛んできました。避ける暇もなく、よだれとつばでドロドロになったお菓子が私の口に押し込まれました。
 その日、何をしたのか、どんな内容だったのか、不思議と何も思い出せません。ただ帰りのバスの中で自分のジーンズにウンチの香りを感じ、下宿に着くと泥のように眠りこけた記憶があります。生まれて初めて、知的障害児施設と呼ばれる施設と出会ったときの思い出です。
 当時はフォークソング全盛のころで、ギターがうまく弾けただけでモテるという時代でした。私もあやかろうと、一部軽音楽部の部室をのぞいていたことがあります。
 たばこの煙がモウモウとした中で、長髪のちょっと怖そうなお兄さんが、すごい勢いでセミアコースティックギターを弾き始めました。そのテクニックに圧倒され、生半可な思いの自分が嫌になりかけていたころ、下宿に女性から電話がありました。「ボランティアサークルのものですが、今度学園で歌をやろうと思うんです。ギターが弾けると聞いたので・・・」
 こんな偶然が重なって、何度となく施設に出入りするようになりました。私は、なるべく見ないように、考えないように、感じないようにしていたと思います。多分、無意識の私が、『私』に言い聞かせていたのでしょう。一人ひとりの子供たちの顔や表情が、脳裏に少しずつ刻まれ始めたころ、いろいろな疑問や興味がわいてきました。
 「あの子は、なぜ泥水を飲み続けるのだろうか」「なぜ額が割れるまで、頭を壁にぶつけるのだろうか」「なぜウンチを壁に塗りつけるのだろうか」
 そういった不可解な行動に戸惑うと同時に、この子たちにかかわる『先生』と呼ばれる方々の存在が気になりだしました。驚いたことに、元英字新聞の記者や働きながら夜間の大学に通っている方、学生運動の元活動家、大学院の博士課程で哲学を学んでおられる方、元ジャズピアニストなど、思いも掛けぬ方々がいました。
 どんな理由で、重度の知的障害と呼ばれる子供たちとかかわるようになったのか。そんな私の問いに対し、まるで禅門答のように「あなたは大学で何を学びたくて、今の専攻を選んだの?本当に自分がやりたいと思えることは何?本当の自分と向かい合ったことはあるの?」といった問いが返ってきました。
 どういうわけか、それが心のどこかに引っかかってしまって、今の私があるような気がしてなりません。
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