徳島新聞「ぞめき」原稿 杉浦良
No.63 タイトル「二対六対二」
私事で恐縮ですが、息子の入試で考えた事があります。本人の行きたいところに行けるのが一番いいのですが、それがなかなかかなわないのが現実です。そこで思ったのは「鶏口となるも牛後となるなかれ」の諺通り、入学試験の難しいところを狙って、その後劣等生でいるのがいいか、それなりのところで手を打ち、優等生でいるかの選択です。
そのときひょっと思い浮かんだのが、二対六対二の法則です。「おみこしの法則」と呼ばれているそうですが、一つの組織で、一生懸命貢献しているのは全体の二割で、あとの六割はまあまあのところ、残りの二割の人はむしろ足を引っ張っていることを意味します。
おみこし担ぎは良く見ると二割の人が必死で担ぎ、六割は適当に、残り二割の人は担がずに遊んでいるという現実を指しての命名でしょう。単純にこれに当てはめれば、それなりのところで優等生でいるほうがベターとなります。牛後で、おみこしを担ぐふりもせずに、ぶら下がって遊んでいる姿が想像できるだけに、なおさらのことです。
ただそれとは反対に、お山の大将で自分が一番、すべては自分中心に世界は動いているというような「井の中の蛙、大海を知らず」とならないためには、難しいところを狙って劣等生となる経験もそれなりに必要です。優等生ばかり集まれば、優等生の中に劣等生が必ず生まれます。そんな当たり前の事が、入試というマジックでは忘れ去られてしまいます。
そんなこんなと思いあぐねていると、やはり二割の鶏口と牛後に属さない、まあまあのところ、おみこしを担ぐふりをしている六割にいる方が無難かもしれない、と心が揺らいできます。
第二次世界大戦中、アメリカ軍が戦闘中の将兵の動きをフィールド調査すると、果敢に戦う二割の将兵が銃弾に倒れると、まあまあの六割から、次に果敢に戦う二割が誕生することが報告されたと聞きました。
ますます変化激しきこれからの長い人生です。一カ所にとどまれるなどと思わずに、二対六対二のすべてを経験することで、社会を認識する力をつけること、自分の足で立つことができることの必要性をあらためて感じました。結局、本人自身が決めて、本人がそれなりにするしかないわけですが。(杉)
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