投稿日:2021年05月09日

事務局通信~努力は報われる


「努力は報われる」という言葉を耳にすることがあります。私自身、子供の頃から学校やスポーツといった環境の中で、幾度となくその言葉を聞いてきました。
 ただ、様々なハンディのある方とお付き合いさせて頂く中で、「努力は報われる」という言葉は諸刃の剣なのでは、と思うようになりました。

 精神的ハンディを持つ当事者の方には、調子のよいときとそうでないときの波がある方が少なくありません。「努力して自分を高めていく」よりも、「調子の波に合わせながら、できることをやってバランスをとっていく」ことの方が大切になってきます。
そのようなハンディは表面的には分かりにくく「別に普通の人と変わらないじゃないか。一体どこがハンディなんだ」と見られ「頑張りましょう」などと言われたりした結果、火に油を注ぐ形となり、頑張れない自分を責め、疲れ果てて再入院を余儀なくされることもあります。言われなくても頑張ってしまうまじめな方ほど自分を追い詰め、「これ以上頑張れない」となって、自己否定から最悪の事態に至ってしまうことすらあります。
「無理しなくていいよ。ボチボチいきましょう」「(たとえ作業ができなくても)作業所に来れるだけでもいいからね(明日につながるから)」などという言葉は、傍から見ると「何を甘いことを言っているんだ」と思えてしまうかもしれませんが…。
 「努力する」ということもある種の資質であって、誰でも当たり前にできることではないと、感じることがあります。
 自分という存在を認めてもらう、自分なりにやったことが評価される、できなかったことができるようになる、そういった体験の積み重ねがあるかないかでも、かなり違ってくるでしょう。
 同じハンディを持って生まれてきたとしても、抱きしめてもらった人もいれば、お前なんか生まれてこなければよかったと言われる人もいます。施設の前に捨てられて親の名前すら分からない人もいます。
衣食を十分に与えてもらえない人、身体的暴力、精神的暴力、性的暴力を受けて育つ人、障害基礎年金を親の遊興費や借金返済に充てる等の経済的虐待を受ける人もいます。
障害を乗り越えろ、健常者と同じことができるまで頑張れと尻を叩かれたり、親族や近所に障害があることを隠し健常者と同じようにふるまうことを求められる人もいます。
それは自分で選ぶことのできない運命のようなものです。

 「人は生まれながらに平等である」ということはなく、現実はかなり不平等です。どのような才能や資質を持ち、どのような環境で生まれ育ち、人生を歩んでいくか。スタート地点から大きく差のついた山登りの世界で、私たちは生きています。頂上にたどり着ける人はごく一握りです。

 努力を重ねて自分を高めていく。不可能と思われることに挑戦していく。決してあきらめずに、困難を乗り越えていく。それは素晴らしいことかもしれません。
ただ「努力は報われる」という言葉が「報われないのは努力が足りないからだ」という裏返しのメッセージとして伝わってしまうと、辛くなってしまう人、苦しくなってしまう人もいます。努力できない人、努力したらつぶれてしまう人もいます。
人生には山もあれば谷もあります。困難を乗り越えられない時、困難に負けてしまう時もあるでしょう。
 努力できる人はしたらよいと思います。努力は報われてよいと思います。しかし「努力は報われる」という話を華々しく美談として取り上げたり、希望の光になると決め付けたりすることの行きつく先は「努力を強いる社会」であり、「努力することは正しい」「人は皆努力すべきである」と努力しない人を否定し排除していく「努力信仰の社会」です。
そのような社会は私たちにとって、本当に生きやすい社会なのだろうか、と思うことがあります。

「人生に無意味なことはない」
 私をこの世界に誘い、すでに他界されたある方の言葉がふと脳裏に浮かびます。
ハンディのあるなしに関らず、自分にできることはやって、できないことは助けてもらえばいい。努力はしてもよいし、しなくてもよい。報われるかもしれないし、報われないかもしれない。頂上にはたどり着けないかもしれない。でも人生において無意味なことはない。
そう思える社会の方が生きやすいのかしれません。






















































































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