今、福祉を問う (3) 近藤文雄

国民の幸せが政治の目的

 政治の唯一最高の目的は国民の福祉である。行政は極めて多岐に亘っているが、それらはすべて、直接あるいは間接に、国民をするためのものであって、その中、直接福祉に関わるものと社会福祉といっているにすぎない。いかに国が豊かになり、科学技術が進歩しても、肝心の国民の中に衣食住にこと欠き、悲しむ者、苦しむ者があってはよい政治とは云えない。世界中に一人でも苦しんでいる人がいる限り私は幸せになれない、といった宮沢賢次や、衆生一人残らず救わないうちのは自らは成仏しないと誓った阿弥陀仏の心を、政治家は心としなければならない。
 福祉という漢字には「しめす偏」がついているが、示という字は天から三すじの帯のような光が地上を照らしている形である。それは天が人間に恵みをたれていることを象徴するもので、幸せは神の恩恵によるという考え方を示している。
 社会福祉という言葉は英語のソーシャル・ウェルフェアの訳語であるが、いかにして国民を幸せにするか、そのやり方を社会制度の側面から捉えた言葉である。古い封建時代の絶対君主制の下でも社会福祉はある程度は存在している。しかし、それは結局君主のためであって、国民の生活が成り立たなければ、君主自身の存立が危うくなるからであったろう。もっとも、古代中国の伝説上の聖人、堯や舜は国民の幸せを第一において自らは国民の奉仕者たるに徹していたと云われる。これが君主の理想像であった。
 近代民主主義の社会では主権在民であり、国民の福祉は国民自らが創り出すほかはない。そのためには、国民が互いに扶け合い、足らぬ所は補い合い、苦しむ者、悲しむ者は慰め励まし合って、個人の損得を超えた一体的人間関係を作り出すことが必要である。そのように崇高な目標の達成は果たして可能であろうか。
 人間には、苦しむ者、悲しむ者、危険に瀕した人を見ては思わず助けずにおられない心がある。孟子はそれを惻隠の心と呼び、この心が成長すると道徳の根本である仁になると云っている。この心は人によって強い弱いはあるが、全くそれを欠くという人はない。ただ、その人の生まれついた素質や育った環境の異いによって、この心が大きく育った人とそうでない人ができるのである。近代社会という環境はこの意味では悪い面が多い、と云わねばならない。
 この優しい思いやりの心は人格の奥底からにじみ出してくるものであって、単なる知識からは生まれない。この心は社会の存立にとって基本的で大切なものであるが、特に今日の社会にはそれを必要としている。現代の行政に一番欠けているのはこの点に関する認識である、と私は思う。目先の対策に追われ、物質面の華やかさに眩惑されて、この心を育てる努力を怠っている。少なくとも物質や外形偏重のそしりは免れない。行政にとって、根本的な価値観の転換として、実効ある施策の実現にふみ切ることが、21世紀に向かって最大の課題であると私は考える。(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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