今、福祉を問う (4) 近藤文雄

福祉は国民の責任

 人はみな自分の幸せを求めるている。だからといって、自分さえよければ他人はどうでももよい、ということにはならない。そんな考え方をすればどうで他人も同じことを考えるのだから、世の中は混乱し結局は自分自身も不幸になる。そこまでは誰も知っているから表面は他人のことを考えているふりをしながら陰でこっそり自分勝手なことをするのである。少くともそうしたい誘惑にかられるのが人間である。しかし、天知る、知知る、己知る、誰知るまいと思ったことがバレるのが世の常である。この点をどう打開して表裏のない世界を作るかが問題の中心である。
 万人が求める幸せを守るために政治がある。主権在民の今日、国民の幸せを守る政治をする責任者は我々国民である。我々はよく政治を非難するが、その政治家を選んだのは我々であるから、人を非難する前に自分自身を責めねばならない。政府が悪いといっても政府の職員は我々国民が雇っているのだから、我々が彼らを監督する責任を怠っていないかどうか、反省しなければならない。
 という風に考えると、主権者である我々国民の至らぬところは多多ある。陰でこっそり自分だけ甘い汁を吸おうとする人間、これは主権者たる資格はない。主権を濫用するものもまた然り。道路拡幅工事をしているというのに一軒だけいつまでも動かぬもの、ゴミ焼却場は必要だが自分の近くでなく他所へ作ってくれという人も失格(注1)。こんな人は民主主義は自分の権利を主張することだと思い込んでいて、公共のためには自ら進んで自分の権利に制約を加える方がもっと大切なことを知らないのである。憲法第十二条(注2)をよく読んでみる必要があろう。全体が見えず局面だけを見て、それを自分の利害だけで判断する人、反対に政治に無関心な人にも国政を任せることはできない。こんな失格者は専制政治か、全体主義体制の下におく方がよい。といってしまえば身もフタもないが、民主主義は非能率的ではあるがこれに優る政治形態はないから、辛抱強く民主主義を育てる他はない。
 民主主義の基本は何か。それは人格の平等である。人間の能力は人によって大変な差がある。会社が人を雇うのはその人の働き、即ち、能力を買うのだから、能力の優れた者に高い給料を払うのは当然である。しかし、人格、つまり人間としての尊厳さ、命の尊さにおいてはすべての人はみな同じである。よく能力と人格をいっしょくたにして考える人があるが、それは混乱のもとである。
 福祉を考える時にも、この人格の平等ということが基本にならなければならない。このことが単なる理念としてではなく、全人的に、つまり実感として分っている人は、苦しむ人を見ては放っておけない、助けずにはおられない気になる。この気持ちが福祉の出発点である。この気持ちなくしては福祉はあり得ないが今の世はこの心を見失いがちであって、末恐ろしい。

 (注1)特殊な事情のある場合は別として、一般論としては、民主主義の本筋からはずれている。
 (注2)日本国憲法、第十二条[自由と権利の保持と濫用の禁止]「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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