今、福祉を問う (5) 近藤文雄

情は人のためにならず

 先般NHKで「情けは人のためならず」という言葉を世人がどう理解しているか調べていた。俚諺であるからどう解釈しようと勝手であるが恐らく本来の意味は、情けは人のためにかけるのではあるが、その報いは回りまわって自分によい結果となって返ってくる、ということであろう。それに対して、軽率な情けをかけて甘やかすことは相手を不幸にするからいけない、という解釈も行われていたのは面白い。私は第三の考え方を提案してみよう。
 それは、情けは人のためばかりでなく、自分自身のためにもなる、ということである。大した違いはないようにも見えるが、とり方によっては根本的な違いがある。何故ならば、情けが自分の利益になって返ってくると云うと、自分の利益のために情けをかけるように響くからである。もしそうなら、自分の利益を目的であって、情けは手段にすぎないということになり、かけた情けはもはや情けとはいえず利益を産むための投資にすぎない。実際上、人に情けをかけたために自分が利益を得ることは多いが、時には損をすることもある。何れにしても、目的は人を助けることであり、利益、不利益は結果である。目的と結果は峻別しなければならない。
 それでは他人に尽すことが何故自分の利益になるか、もっと別な面から考えてみよう。その答えは、人間の本性に沿った行為だから、と云ってよいだろう。人間は誰でも、利己心と並んで利他心がある。他人の喜びは自分の喜びと感ずる美しい心を持っている。だから、人のために尽さずにはいられないし、尽すことによって満足が得られるのである。何の報酬も期待していないが、強いて西洋式のギブ アンド テイクの形式にあてはめると、尽す喜びが報酬となる。
 社会的な見地からすると、人間は社会を離れては肉体的にも精神的にも生きられないように出来ている。そして、社会生活をする以上、互いに協力と競合という一見矛盾した関係を生ずることは避けられない。人間は常々この矛盾につきまとわれ、その調和を求める所に道徳が生まれるのである。事実として、人類に今の繁栄があるのは協力の結果であり、将来もおの繁栄が維持できるか否かは、協力と競合、利己と利他をどう調和させるかにかかっている。
 倫理的には、人生の最高目標は自己の人格の完成、自己実現である。知識や技術を身につけることは、人間を道具と見た時、利用価値を増しはするが、それは人格とは関係がない。人間は道具として利用すべきではなく目的そのものである。人格の完成とは何か。それは千万言を費しても云い尽せるものではないが、仮りに言うならば宇宙の真理を体得し、全宇宙全人類をも把握する大きな人格にまで自分を育てることである。そこまでいけば、自利他利の区別はなくなり、一つの大きな愛により結ばれた一体的関係があるだけである。
 それはキリストの愛、仏の慈悲の世界に通ずる。人のために尽くすというさりげない行為はこんな深い所でつながれているのである。これより大きい利益はない。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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