今、福祉を問う (14) 近藤文雄

花嫁修行にも介護体験も

 ある障害者施設の職員がこう云った。毎日毎日おむつの交換ばかりで私はバキュームカーなのか、と。自分の仕事をバキュームカーと同列にしか評価できない職員の惨さと、こんな言葉を聞かされた保護者のとまどいは、第三者にとっても何ともショッキングな話である。これは極端な例かも知れないが、せっかく弱い人の幸せを守るという崇高な仕事に携わりながら、自分の仕事に誇りを持ち得ない職員は哀れという他はない。
 職業に貴賤はない、と口では唱えながら、汚物を扱う仕事は賤しく、銀行や大会社のオフィスで働く仕事は高等だと思う心が断ち切れないのである。仕事は人のため、社会のために役立つから意義があるので、役に立ちたいと願う心が貴いのである。だから、汚物処理を人が嫌えば嫌うほど、その仕事をするのは貴い貴い行為となる。洋の東西を問わず、寺院での修行の第一歩は便所の掃除から始まるのはそこに意義を認めてのことである。キリスト教の伝統が社会の根底に生きている西欧社会では、近代の日本と異って、このような考え方は受け入れ易い。英国皇太子のダイアナ妃は保育所で保母をしていた。それも貴族の出がである。日本の保母もダイアナ妃と同じ仕事をしていると思えば誇りを持てるであろうか。それは冗談として、ドイツでは結婚前の娘が施設で実習することは常識となっている。そう長期ではないが、その間会社は仕事から離れることを認め給料まで支払うのである。だから、誰でも安心して実習に行くことができるし、その結果は社会的に高く評価されるのである。生け花、料理といった日本の花嫁修業もいいが、障害者や老人施設での体験ほどすばらしい花嫁修業はない。そんなお嬢さんは引っぱりダコになるに違いない。介護の技術もさることながら、障害者や老人に対する見方、考え方、接し方、いや感じ方に習熟することは人間形成上貴重な体験である。それも義務でするのではなく、進んで自分を高めるために、奉仕の喜びを実践を通じて体得しようとするのである。
 社会の老齢化が急速に進む日本では、寝たきり老人、痴呆老人の介護がさし迫った問題となっている。そのための精神的、肉体的、経済的負担をいかに処理するかは大きな問題であるが、前述のドイツのやり方はよい参考となるであろう。にわかに卒中で倒れた姑の排便の世話までしなければならなくなった嫁の狼狽ぶりは察するに余りある。食事の介助、清拭衣類の交換、その他身辺の細々した介助は経験のないものにとっては大変な重荷である。肉体的には云うに及ばず、精神的に参ってしまう者が多いのも無理はない。しかし、その一つ一つを取ってみれば技術的には大してむずかしいものはない。一度やったという経験さえあれば精神的負担は余程軽くなり、ずっと気軽に対応できるであろう。その場に直面してからではおそい。前もって準備さえ出来ておれば肝を潰すこともない。もっともドライな嫁なら、そんなことをしに嫁に来たのではないと突っぱねるかも知れないが、それは最善の道ではない。もっと人間味のある解決の道がこの方式によって開けるであろう。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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