今、福祉を問う (15) 近藤文雄

障害者が幸せになる道

 障害者の福祉を考えるには障害者自身の側と、彼らを包む社会的環境の両面で見なければならない。環境のことについてはすでにいく度か書いたので、これからは障害者自身の側のことを考えてみよう。
 人間は十人十色といわれるように、障害者にもいろんな人がいる。人間として実にすばらしい人もいれば、凡俗なつまらぬ人間のいることも事実である。そして、真に障害者の幸せを願う立場からは、障害を持っていても人間として立派に成長して欲しいと思うのである。なぜならば、幸せの中で最高のものはその人が人間的に大きく成長することだからである。つまらぬ人間はつまらぬことの追求に一生を費して得る所はなく、立派な人に高い理想を求めて大きな幸せを得るからである。考えてもみなさい。あなたにとって一番大切なものはあなた自身ではありませんか。それに比べれば、あなたの社会的ステイタスを示す地位や名誉や財産などはいわば付属品にすぎない。例えて云えば、貧弱な体をいくら高価な衣装やアクセサリーで飾ってみても、立派な人の足もとにも及ばないのと同じである。
 人生で一番大切なことは、自分という人間を最高度まで立派な育てあげることに外ならない。
 というと、自分さえ立派になれば他人はどうでもよいのか、という疑問を持つかも知れないが、そうではない。何故ならば、自分さえよければ他人はどうでもよい、という人は人間としてまだまだ低い発達段階にあり、真に大きく成長した人は、自分と他人の区別はなく、人のために尽すことがそのまま自分のためになり、自分を育てることにもなるからである。そのことについては後に詳述したい。
 ところで、人間的成長とは何か。それを知るためには、その人が人間的に成長しなければならないという困った問題につき当る。人間の値打ちを判断する能力は、その人が人間として成長するにつれて増大するものだからである。未熟なうちは、外見だけを見て判断するが、成熟した人は人の内面まで見通してその真価を知るからである。それは丁度美術品の価値を知るには審美眼を養わねばならぬのと同じことである。
 人間としての発達段階は、その人の単なる知識の量で社会的地位や財産の高下大小には必ずしも比例しない。世俗的に偉いとされている政治家や事業家、あるいは学者などの中に意外と幼稚な人間がおり、無名の貧しい庶民の中にも真に偉い人物がいるものである。私は障害者の中に驚嘆する程立派な人も幾人か見てきた反面、体の障害に加えて心までこんなお粗末ではと眉をひそめたくなるような人にも会った。その点、健康者も同様であって、このように様々な人間がいるのは現実の社会としては普通のことである。しかし、未熟な人間も、考え方さえ改めればもっと成長して広い視野が開け、大きな幸せを手にすることもできると思うので、これからそのことについて考えてみることにしたい。(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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