今、福祉を問う (18) 近藤文雄

不可欠な社会人

 前回は聖人のような障害者のことを書いたが、今回はごく平凡な障害者のこと、その陥り易い落し穴のことにふれてみよう。といっても、私はそれらの人々を非難しようとするものではない。同じ弱点を持つ人間として、ちょっとした考え方の転換で、今までとは違った意義のある生き方が開けることを期待してのことである。
 大抵の人間は、本能や物欲、権勢欲、名誉欲に振り回されて一生を送るが、障害者も同じであろう。もしかすると、普通の人以上にそれらに憧れているかも知れない。人並になりたいという願望が強いからである。
 ところで、近年、障害者に対する物的な給付が充実してきたが、それは金品を貰うことが福祉であると勘違いして貰うことばかりに気をとられ自分の生き方について反省することを忘れている人がある。よく云われることだが、施設の子どもたちが見舞客からの贈り物に馴れて、その優しい心づかいよりも品物に心を奪われる傾向が生じる。それが高じて、しまいには、こんなつまらないものを持ってきてなどと考えるようになっては大変である。障害者も、手当てや処遇の改善を求める時、いやその前に、まず感謝する心、足るを知る心を養うことが大切である。貧る心をつのらせるのは煩悩の火をかきたてるだけで、永久に心の安らぐ時はないからである。
 相互扶助を目的とする障害者の団体でも、毎年同じ投資や同じ顔ぶれが集って、同じ行事をくり返すのではなく、社会の隅で人知れず苦しんでいる仲間を発掘して、その人たちのニーズに応えることを考えることが大切であろう。ほんの少し視点を高めることによって視点が広がり、福祉の視野が拡大するに違いない。
 障害者は障害を持っているから他人に尽くすどころではない、と決めてかかるのは大間違いである。成程、障害は障害として除外しても、その他の点においては結構社会に尽す能力は誰しも持っている。人に尽すと云っても、受ける恩恵と尽す貢献がきちんと量的に釣合うという意味ではない。精神的に互いに持ちつ持たれつといった緊密な一体関係を保つところに核心がある。何も出来ないような人でも、心から有難とうと感謝するなら、また、世話をして貰う時、少しでも仕事がし易いように自分の体を動かして手伝うことだって、その気持は相手に伝わるであろう。
 障害者の幸せとは何かを考える上で、いろんな視点があるが、その根本には障害者が社会にあって他の人と対等な人格が認められ、対等な権利と義務を与えられることであると思う。権利ばかり要求し、あるいは与えられることばかり求めて義務を果たそうとしない人は、自ら自分の社会的地位を引き下げるものである。
 これを例えて云えば、社会は石垣で、個人は石垣を構成する一つ一つの石のようなものである。個々の石は大きさ、形は様々であるが、それぞれが適当な場所にはめこまれて一段と堅固な石垣が築かれる。それと同じく、障害者も障害を持ったままで、その個性を発揮することによって、社会になくてはならなぬ存在となることができる。そのような社会を構築しなければならぬ。その点、基本的には健常者と同一の立場にあるが、それを実現するには社会の側も障害者の側も努力しなければならぬ。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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