今、福祉を問う (21) 近藤文雄

無欲は大欲に似たり

 本欄に書きはじめてから大分日が経ったが、反応が少ないので少々がっかりしていた所であるが、全く反応がないわけでもなく、たまに、何回も反射して減衰したエコーが聞こえてくることもある。そこで、今回は気分転換をかねて、そのかすかな声を取り上げてみることにした。反論を封じようというのではなく、切角の反応だから誠意をもって応えたいと思うのである。
 まず、こんな声から聞いてみよう。お前は云うことをとすることが食い違っている。綺麗ごとを云いながら、福祉法人の理事長やリサイクルをやっているではないか。何らかの利益を期待しないでそんなことをするはずがない、と。法人を経営したりリサイクルをすることが、いきなり利益目的に直結するとはちと腑におちないが、私が売店や物質的利益を目的としてそれらの事業をやっているとしたらその非難は当っている。また、利益とは何か。それが問題ではあるが、私ははっきりした目的をもってこの仕事をしているから、その狙うメリットを利益というなら、利益を求めてやっているという主張も正しい。
 ただ、私の目的は物質的な利益や売名でないことだけは云っておかねばならない。私の狙うメリットは、我々の住むこの社会を少しでもよくするということである。その意味で、私はこれらの事業をボランティア活動の一環としてとらえているのである。私はボランティア精神、即ち、社会をよくする目的で、自ら進んで、自分の出来る範囲のことを、報酬を求めることなしに実行することが、社会福祉の基本であり、民主主義の根幹であり、世界平和の基盤である、と考えているからである。
 私はこんな大きな利益を得ようとしてやっているから、お前は欲ばりだと云われても仕方がないが、私がこれまでに述べてきたことと矛盾することはない。といってもちろん、私は今まで述べてきた理想と一致するような人間であるなどと云うつもりは毛頭ない。ただ、できるならそれに少しでも近づきたいと念じているだけである。
 しかし、一歩退いて考えてみると、世の中には物欲や名誉欲のためにこの種の事業をしている人がないとは云えない。したがって、何も知らない第三者が私がそのような人間かも知れないと思っても無理はない。むしろ、そのようなまやかしが罷り通っている中に、それが当たり前のようになって、それに対する反省の心が萎縮してしまっている。という一面が現実の社会にはあるのではあるまいか。そのような世相の中で育つ若い世代への影響が恐ろしい。
 物欲、権勢欲、名誉欲などは小さな欲望である。そんなつまらぬもののために義理を欠き人を苦しめて、かけがえのない自分の人格を傷つけるくらい、割の悪い取引はない。それらの欲求は、真善美を追求し、人を愛する喜びの大きさに比べれば物の数ではない。壮大な欲をもって小さな欲は捨てる。無欲は大欲に似たり。大欲は無欲は似たり。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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