今、福祉を問う (29) 近藤文雄

幸せの青い鳥

 幸せになるには雑多な欲求を、価値観にしたがって整理する必要がある、と述べたがその手順を考える前に、一応一般の人々の幸福感について一べつしてみよう。
 一番幼いというか、少女のような漠然とした幸福感はシンデレラ姫の話に代表されている、ある日突然、すばらしい王子様が現れて、他の人には眼もくれず、真っすぐに自分の所に来て抱き上げてくれる。という筋書きである。それは全く受動的で、自分の側のことは一切考えられておらず、幸せは与えられるものと頭から決めてかかっているのである。もっとも、この話では、シンデレラは気立ての優しい素直な子で、勿論美しいという人に好かれる条件がつけ加えられてはいるが、この話のような幸せが自分の身にふりかかることを期待している少女は、自分の側の条件などつゆ考えず、ひたすら千載一遇のチャンスを待ちこがれているのである。そんな人にたまたまチャンスが与えられたとしても、自分の方にそれにふさわしい条件が備わっていなかったら、折角のチャンスも潰れてしまう他はない。
 幸福とは何か、分っているようでいざ考えてみるとつかみどころのないものである。そこで漠然とした主観的な幸福感を捉えて、それで分ったような気になり、それ以上深く追求しないのが普通である。その気持ちはヘルマン・ヘッセの次の誌によく表われている。
 山の彼方の空遠く
 幸い住むと人の言う
 ああ我人と尋め行きて
 涙さしぐみ帰りきぬ
   × × ×
 山の彼方の空遠く
 幸い住むと人の云う
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 幸せというものがあって、それを捉えれば幸せになれるあるいは、幸せの口というものがあって、そこへ行けば条件で誰でも幸せになれる、などと考えているのである。そんな、漠然としたロマンチックな考えで幸せを追いかけていたら、幸せは虹の橋のように、近づけば近づく程遠ざかっていくであろう。
 同じように、幸せを捉えようという考え方をしたものにメーテルリンクの青い鳥がある。幸せを斉らすという青い鳥を求めて、チルチルとミチルという二人の兄弟が方々探し歩いたが、どこにも青い鳥はいなかった。夢から覚めた時、自分の家の軒下に吊した鳥籠に青い鳥がいて、それと隣の病気の女の子が貸して欲しいというので貸したら、大変喜んで元気になった、というのである。幸せを作る元はそんなに遠くを探す必要はない。すぐ眼の先にいくらでも転がっているのである。それは人と人との優しい思いやりの心の交流である、という教えである。
 我々はともすれば、幸せになれないのは他人や社会のせいだと考えがちである。勿論それもあるが、他の条件は自分の思いのままに変えることはむずかしいから、自由になる自分の気持ちの方を変える努力をするのがより合理的であり成功の確率も高いと知るべきである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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