今、福祉を問う (30) 近藤文雄

楽の裏には苦が

 幸せの根本は欲求の満足にある。ということ、まず頭に浮ぶのはしたい放題をする、ということである。したい放題を史上最大の規模でやったのは秦の始皇帝であろう。初めて広大な中国を統一し、空前絶後の権力を振い、万里の長城を築き、阿房宮を作り、後宮三千人を侍らせたというあげくの果ては焚書坑儒などという滅茶苦茶なことまでやって彼は世界最大の幸せを得たであろうか、とんでもない。栄華を極め、不老不死を願い子孫の永遠の繁栄を期待した彼は、たった一代で滅んでしまった。こんな彼の生き方に共鳴できるのは精神に異常のある人間を除いて他にはあるまい。
 始皇帝のスケールには及ばないが、我々庶民にも、したいことは山程ある。息づまるような仕事から解放され、時には海や山へ行き、海外旅行もし、グルメを楽しみ、そっと浮気し、ギャンブルにも手を出してみたい、等々の思いは誰にも多少はあるだろう。そして、その一つや二つは実行してみたに違いない。そのような経験から得た教訓は、この道は必ずしも楽しみばかりでない、苦しみというお返しがついているということであった。だから楽しみは我々に止めておけ、というのが結論である。中にはこの警告を無視して破壊にまで直行するものもないではないが、これは異常な性格や環境のせいであったろう。
 快楽を人生最大の目的とする考え方を快楽説と呼んでいるが、この問題に真剣に取り組んだ古今東西の哲学者の結論も同じようにそんな旨い話はない、ということであった。一生の楽しみを余計に働いて最大にするためには、太く短く生きるよりは細く長く生きる方がよい。つまり、楽しみはほどほどに抑制して長持ちさせる方が得だという結論に達したのである。これは快楽主義とは正反対の禁欲主義者の主張と奇しくも一致している。それでも納得できないという人があれば、自分を試験台としてしたい放題をやってみるがよい。一生の終りを待たずしてその意味をいやというほど思い知らされるだろう。
 仏教では、貪ぼる心が煩悩の源であると教えている。無知故に物の道理が分らず、何が何でもがむしゃらに欲しいという心を貪ぼる心というのである。そんな不合理な欲求が通るはずがないのに、それが満たされないといっては怒り狂い、悲しみ嘆くのである。この貪ぼる心と、その原因によって愚かな心を仏教では三毒と呼び、それを取り除くことが苦しみをなくする道である、と説いている。そのためにはまず正しい知恵が必要であるが、無知な人間は、自分が無知であることを知らないために、無知を恥じ向上しようという考えをおこさない、というジレンマに陥る。馬鹿につける薬はない、とは困ったものである。
 このように積極的に快楽を求めることにブレーキがかけられているのは何とも不本意な感がするが、嘆くことはない。人間とは快楽よりもっとすばらしい生き方が準備されているのである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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