今、福祉を問う (33) 近藤文雄

理想の成長

 障害者が幸せになる条件は基本的には健康な人と全く同じであり、それは、自己の心の奥底から出てくる止むに止まれぬ欲求を満たすことである、と述べた。欲求にもいろいろ種類があるから、その中で最も高い欲求、即ち理想の追求に全力を傾注して、低位の欲求は自然切り捨てることになる。
 ところで、理想とは自分が心から求めるものであるからその内容は人それぞれに異なっていて然るべきである。どんなにすばらしい理想であっても、他人の理想をそのまま借用してすます訳にはいかない甘党が辛党の真似をしてもはじまらないからである。したがって、低俗とされてもそれがその人の最大の欲求であれば、それがその人の最高の理想である。
 理想がこのように人によって固定して動かないものとしたら、高い理想を持てと要求することは意味をなさないように見える。しかし、そうではない。理想は変化するからである。人は心身の成長とともに、その理想も変化し成長する可能性を持っているのである。
 体の成長は誰の眼にも明らかであるが、心の方の成長は体ほどはっきり見えるとは限らない。また、体の成長は精々生まれた時のニ、三十倍どまりであるが、心の方の成長は恐らく何万倍にもなるであろう。アインシュタインやベートーベンの頭脳の偉大さは計り知れない。
 同じく成長しても体の頑強な人やひ弱い人が出来るように、心の成長も、その幅が広いだけに個人差も大きくなる。仮りに、その大きさを視覚化することができるとしたら、その差は鼠とマンモスくらいにもなるであろう。我々は自分も他人も似たりよったりと思って安心しているが、これほど大きな差があることを知ったらびっくりするに違いない。
 このように、人間は身も心も成長し、それにつれて理想も変化することを我々自身の体験からも知っている。そして、その変化は必ずしも上に向かうとは限らず、停滞したり下降することもある。したがって、ある人の理想を見れば、その人の人柄が分り、人間としての発達の程度が逆に推測できるとうものである。
 人間の発達程度を計る尺度の種類はいくらでもあり得るが、真に人間にふさわしい尺度は真善美という価値の物指しである。他の物指し、例えば体力とか知識とか技能とかで計れば高い評価を伴う人でも、真善美の計りにかければ大変お粗末な人がいる。俗世間では前者の物指しが一般に用いられているので、後者の優れた人は余りに目立たない存在になりがちである。それだけに、社会的に成長したと目される人々はその物差に満足して、人間的な物指しで計り直してみようとはしない。結果として、低俗な理想に止まったまま得々としているのである。
 また、少年時代に純真な理想に燃えていた人が、世の荒波にもまれると打って変わってすれっからしの人間になることもある。それは進歩ではなくして、実社会での複雑怪奇互いに矛盾する経験を整理しきれなくて、短絡した誤った結論に達した、と云うべきである。理想の正しい方向づけはどうすればよいのであろうか。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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