今、福祉を問う (35) 近藤文雄

個性と放恣は違う

 人間最大の幸せは人格の実現にあると述べたが、どこまで筋の通った説明になったか、どの程度納得してくれたのかは疑わしい。そこで同じことになるかも知れないが、もう一度整理してみよう。
 本能的欲求や物欲その他の人間臭い欲求は、生きるために欠くべからざるものではあるが、それら個々の欲求に捉われすぎると全体の調和がこわれて、大きな満足は失われる。そこで、それら諸々の欲求を統一して、強調すべきは強調し、抑えるべきは抑えて全体の流れが一つの決まった方向に向かうように調整する必要がある。
 これらを例えれば次のようになるであろう。我々の心の奥底には、オーケストラの指揮者のような働きをする人格ともいうべき本心がある。オーケストラでは、指揮者の思いのままに演奏をコントロールするように、人間においては、この人格が諸々の欲求をコントロールしているからである。それでは、人格は何に基づいてコントロールしているのであろうか。それは真善美という価値の実現である。
 ところで、大多数の欲求には、それ自体が目的ではなくそれより一つ上の目的を達成するための手段となっている食欲は肉体を維持するため、性欲は種族保存のため、物欲は生活を支えるためといった具合いである。いやそうではない。快楽が目的であるというかも知れないが、快楽は結果であって目的ではない。本能的欲求は、たとえ結果が苦であってもそれを求めずにはおられないのである。食や異性のため自他の生命さえ奪うことがあるのを見てもわかるであろう。たまたま結果が好都合だから、目的と結果を混合しているだけである。このように、手段となる欲求がピラミッドのように積み重なって、最終的にそれ自体の目的という理想に到達するのである。
 真善美はそれ自体が目的であって、それを求める人格の理想は、人間の欲求の中で最も深い基本的なものである。性善説と性悪説もこの点はともに認めている。
 この基本的欲求の方向は万人に共通しているが、それを具体化する方法は人それぞれ異っている。そこには明確な個性の差が認められるのである。
 それは家を建てるのにも似ている。どの家もいくつかの基本的原則を満たさねばならない。風雨を凌ぐこと、災害に耐えること、居住性がよいこと、などがそれである。だからといって、すべての家が同じ構造になることはなく、人それぞれの好みによって作られるため、一つとして同じ家はない。それと同じく人格には冒すべからざる個人性があり、それは最大限尊重されなければならない。
 ここで、個性を尊重することと、欲しいままに振舞う放恣との違いについて触れておく必要があろう。したい放題をするのも、いくらかは個性の現れではあるが、それは全体の調和を乱し、全体の目的達成を妨害する。丁度、オーケストラにおいて、ドラムやトランペットが自己を主張して調子はずれの音を出すようなものである。オーケストラなら指揮者が奏者を抑制するが、我々の心の中では、抑えるものと抑えられるものが一つである点において、両者は事情が全く異っている。仮りに我々の欲求が他人によって抑制されるなら、それは人格の否定になるが、自ら抑制するなら、それが人格の実現となるのである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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