今、福祉を問う (36) 近藤文雄

生死を越える道

 筋ジスの子の特集、季節のない部屋(国立療養所刀根山病院)を読んで、今更のように彼らの追いつめられた心情をひしひしと身に感じた。この三十年近く、私はこの子らの苦悩をどうしたら少しでも柔らげられるかと考え、いろいろ試みてきた。そして、最終的に、彼らが根本的に救われるためには、彼らばかりでなく健康的な人間も私自身もみんな同じことであるが、生死を超越した境地にまで人間的に成長することをおいて他にない、という考えに達した。
 それはとてつもない難問である。私には到底実現できそうにもない目標ではあるが、それだけにまた、これ程壮大なテーマはない。どこまで到達できるかは別としても誰もが生涯をかけて追求すべき問題である。
 しかし、こんな遠大な目標を掲げてみた所で、筋ジスの子の苦しみをどの程度まで実際に救えるかは疑わしい。生死の問題は古来、人間を悩ましてきた最大の問題であり、常識や医学や自然科学で解決できるようなものではないからである。それは、哲学や宗教に深く関わる人生の最も基本的な問題である。私は長年筋ジスの子のために、この問題と真剣に取り組み、指導してくれる哲人や宗教者の出現を希求してきたが、不幸にして未だそのような人にめぐり会えないでいる。他人をあてに出来ないとすれば、私は、私にできる範囲で行動する他はない。
 生死の問題は、筋ジス患者はさておき、私にとっても切実な問題である。私自身のためにも解決しなければならぬ重大事である。この世界のしくみはなっているのかという世界感、人はいかに生くべきかという人生観の確立は、すべての人にとってその生きていく土台である。それにも拘わらず、このことについて真剣に考えようとする人は意外と少ない。目先のことに追われ、そんな飯の種にもならないことを考えるのは暇人の道楽くらいに思ったり、たまたま考える気になっても、五里霧中にさまよう思いがして投げ出してしまうのである。
 生とは死とは、我とは世界とは、大上段に振りかぶって見栄を切るのは青くさいかも知れないが、私は筋ジス患者が、そして我ら人間が、真に救われるのはこの道以外にないと思う。もちろん、理屈をこねるだけではどうにもならないが、知情意のすべてを尽し、全人的にこの問いかけに体当たりする中に活路が開けてくるのではないか。その道は険しく、筋ジスの患者だからといって安易な王道は準備されているわけではない。
 とは云うものの、敗北主義に陥る必要はない。覚りにも多くの段階があり、その中のいくつかの段階に昇ることは夢ではない。また現に、驚く程高い心境にまで達した筋ジスの人を私は幾人も知っている。したがって、このような一見高遇すぎる目標を掲げることもあながち無謀なこととは云い切れない。少なくとも死という袋小路に閉じこめられた人々に、そこから脱出する可能性のあることを知らせるだけでなく大きな光明である。
 小学一年生でも幼稚園児には教えることがある。未だ覚らざるに他を度すという言葉もある。差し当って、私は私なりの仕事をすすめよう、バプテスマのヨハネのように。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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