今、福祉を問う (37) 近藤文雄

もう一つの道

 我々は生きている限り様々な悩みを持つ。
 その理由は、生きる根本には意志があり、意志は欲求を生み、欲求は百パーセント満たされるとは限らないから悩みを生ずるのである。
 その意味では、生きるとは苦である、という仏教の教えは当っている。しかし、反対に生きることには喜びもある。欲求の多くは満たされるからである。一時的に満たされなくとも、欲求が積もりつのって大きく成長した後に満たされると、その喜びは一層大きい。
 苦にもいろいろあるが、その中で最大のものは死であろう。仏教では生老病死の四苦や八苦をあげているが、その中で死は一番恐ろしい。死ぬことなどへっちゃらだという人もたまにいるが、大抵の人にとって死より怖いものはない。健康な時はさほどでもないが、死が目前に迫った病人や老人は得にそうである。
 人間は誰一人としてこの最大の苦である死から逃れることはできない。釈迦やキリストさえ死を免れなかったのだろう。私もあなたも、いつかは死ななければならない。そのことは百も承知だろうが死にたくない、と思うのは人情である。
 この無理な要望に応えて、永遠の命を保証しましょう、というのが宗教である。但しこの世においてではなく、ある世でという所が味噌である。この世である地球はそろそろ手狭になってきたから、死ぬ人がなければ後がつかえる、ということである。人口のすべてが百歳、二百歳となったら大変である。
 もし、日本では死ななければならないが、アメリカへ行ったら永遠の命が保証されるといえば、みんなアメリカへ移住するだろう。ところが、あの世へ行けば永遠に生きられるというのに、誰が進んであの世へ行こうとはしない。信用してよいからである。ただ、死が絶対に避けられない人は、はずれてももともとだからとあの世に期待しようとする。
 イラン・イラク戦争で、イスラムの兵士は、国のため死んだ者は必ず天国へ生まれかわる、と教えられているから勇敢に闘うのである。まだこの世に生きる余地のある人はあるかないか分らぬ天国に自分の命を賭けるだけの勇気はなく、一寸のばしにこの世にしがみついているのである。でも、もし本当に天国や極楽があるのなら予約しておきたいと、とは誰しも考える所であろう。
 天国があり悟りの彼岸がある、というのは本当であろうか。釈迦やキリストが嘘をついているとは思えない。といって地球の外にそんなユートピアがあると天文学は教えていない。とすれば、天国や極楽は、物理学的な世界とは別な世界にあると云わねばならない。天体や地球のあるこの宇宙の他に別な世界というものがあるであろうか。
 その答えはむずかしそうにみえて、実は簡単である。我々の常識が、唯物論的世界観にこり固まっているから、物質的な時間空間という制約に閉じ込められた世界しか考えられないのである。本当の所、世界というものには無類の種類があって、常識がただ一つしかないと考えているこの物理的世界は、多くの世界の中でただ一つの例にすぎないのである。このことにさえ気づきさえすればすべては忽ち氷解する。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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