今、福祉を問う (40) 近藤文雄

いろいろな世界

 物質には実体がなく、意識現象にすぎない。と述べたが、今回は、心も同様に実体のない意識現象の集合である、と説明する番である。
 我々には心というものがあって、悲しんだりする、と思っている。しかし、それらのいわゆる精神の働きを注意深く観察してみると、その働きをする主人公である心というものの姿はどこにも見当らない。そんなものは無いからである。それにも拘らず我々は働きがある以上、働く心というものがあるはずだと決めてかかっているのである。この間の事情は物質の場合と全く同じであるから、物質に実体がないことを理解できた人は心にも実体はなく種々の意識現象の集合にすぎないことが分るであろう。
 このように、物と心は本質において同じであるのに、常識はなぜ物と心が火と水のように異ると考えるのであろうか。その理由は、物は目に見えるし、手で触れることも出来るから確かに存在すると思い、心は見えもせず触りもできないから、雲をつかむような不確かな存在だと考えるのである。しかし、見たり触ったりとは要するに意識現象の中の視覚や触覚であり、それらを確かなものとしながら、同じ意識現象である喜んだり悲しんだり、考えたり、決定したりすることを不確かだと考えるのはおかしい。両者同等であるのに、このような不公平な扱いをする所に意識が誤りを冒かす原因がある。
 なぜそうなるかは別にしてこの誤った考え方を修正し、先入観を取り除き、公平なレフェリーのように意識現象を正確に観察すれば、物も心も同じ意識現象の集合であると了承できるであろう。
 物も心も、実体でないものであるのに、我々が勝手に実体があるもののように考えているのだとしたら、それは大変なことである。常識が絶対に確実なより所としてきた物心二元論が根底から覆され、常識的世界観は完膚なきまでに打ち破られることになる、からである。
 そんな馬鹿なことはない。現に今こうして考えている私は何なのか、目の前にある机や本は何なのか、それらは皆ないのか、という疑問を持っても不思議ではない。
 いや、何もかも無くなる、と云っているのではない。すべては元のままである。では何故我も世界もないというのか。
 実は、現実には何の変化もないのだが、その事実を眺める眼の方が変ったのである。事実をどう見、どう解釈するか、という考え方の根本が変わったのである。同じ物を見ても見る角度が違えば見える姿も変わり、見る人によって受ける印象も変わるのである。今まで、自分があり、物理的世界があると思い、それに他の考え方はないと思って眺めていたのが、流動的な意識現象だけがあるのだと見直すのである。
 見るということは、ある一つの原理によって全体を一つの体系に整理し統一することである。が、その統一の仕方には無数の方法がある。例えば一つの森を見ても、商人は木材の量で学者は生物学的に、そこに育った人は少年の頃の思い出でといった風に別々の世界を構成するのである。物理学的世界はその中の一つにすぎないのである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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