今、福祉を問う (43) 近藤文雄

オリエンテーリング [T]

 これからジャングルの中のオリエンテーリングを始めよう。といっても案内役の私が道筋をよく知らないのだから迷子にならぬよう各自がよく考えながら進んでもらいたい。
 このオリエンテーリングの終点は、人間の幸せということであるが、そこへ行くまでにいくつかの重要なポイントを通過しなければならない。この際、早さは問題でなく、確実に目的地に着くことが肝心である。
 ところで、どんなポイントを通過すればよいのか。出発に当って、取りあえず次のように方向を決めておこう。
 人間の幸せは自己の欲求を満たす方角にある、と。この方角なら誰しもまず納得してくれるだろう。勿論、地形の都合で回り道をしなければならぬ場合もあるだろうが、大きな方向としては妥当でないかと思う。
 人間の幸せは自己の欲求を満たす方角にある、と。この方角なら誰しもまず納得してくれるであろう。勿論、地形の都合で回り道をしなければならぬ場合もあるだろうが、大きな方向としては妥当でないかと思う。
 人間は生きている限り色々な欲求を持つ。そして、欲求が満たされると喜び、満たされないと悲しむ。かくて人間は一生欲求に追いたてられて働きつづけるのである。それが人生である。したがって、欲求が満たされなければ生きる甲斐はない。
 ところが、我々の持つ欲求は内容(質)においても強度(量)においても様々でありしかも時と場合によって大きく変動する。そしてその欲求をいつもすべて満足できるとは限らないから、その中のどれを取上げ、どれを捨てたらよいか、その選択に迷うのが常である。どのような選択をすればよいか。それを考えるのが第一のポイントである。
 そこで、まず考えられるのは、最も強い欲求を第一に取り上げることである。仮りに、その場、その場で一番強い欲求を満足させるように振舞ったとすると、その結果は収拾のつかない混乱に陥ることは眼に見えている。そこで、選択に当っては、単に強度だけを条件とせず、理性を働かせて、もっとも他条件についてもよく考えねばならぬことが分かる。
 ところで、人間の欲求は各個バラバラに出現するものではなく、互に関連があり、つながっているものである。したがって、諸々の欲求に個別に対応していたのでは全体としての調和が破れる恐れがある。義理を通せば角がたち情に棹させば流される、ということである。そこで、諸々の欲求を全体として把握し、統一ある対応の仕方を考えねばならない。それは例えば音楽のようなものである。音楽では種々の音が調和して、全体として一つの美しい作品となる。人間の欲求の充足も、種々な欲求の中のあるものは抑制し、あるものは強調して全体として旨く調和させる所に見事な生き方が実現するのである。欲求の調和を図ること、これが第二のポイントである。
 それでは欲求をどのように調和させればよいか。それは当然、真善美という価値の実現に向ってでなければならない。ところが未熟な我々は、我々が心から欲するもの必ずしも真善美において価値の高いものでなく、むしろ低いものが多い。そこに問題がある豚に真珠、猫に小判というようなものである。豚は真珠より残飯を求め、猫は小判より鰹節に価値を認める。豚や猫やにとってはそれは避けられない判断である。人間も、その人の人間的発達の度合いに応じた価値判断しか出来ないのである。もし我々が大きな幸せを得たいなら、自分自身が大きく成長して、正しい価値判断をする能力を身につけ大きな価値ある人生を実現することである。孔子が心の欲する所にしたがって規をこずといったのはその最高点を示したものであるが、そこまでは常人に認めないにしても、障害者自身が人間的に成長することをおいて高い幸せを得ることはできない。そのことを知ることが第三のポイントである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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