今、福祉を問う (42) 近藤文雄

お月様を取って・・・

 前回に述べたような考え方に立てば、障害者が真に幸せになるためには障害者が自ら生きる道を切り開く覚悟が最も大切である。こんな句がある。

 名月を取ってくれろと
 泣く子かな

 俳句か川柳か、それとも道歌の類いかは知らないが面白い句である。実際にこんなことを云う、豪傑だか阿呆だか分らぬ子がいるとは思えないが、作者の意図を体して解釈してみよう。
 子どもにとって名月はキラキラ輝く美しい円盤で、おもちゃとして遊ぶには絶好のもの、と見たのであろう。すぐそこに見えるのだから、物干竿か何かで叩き落としてくれとせがむのである。泣いて頼む程度だから余程の熱心で、取れるものと確信しているようである。
 しかし、大人にとっては、それは論外の話である。とは云え、名月は大人にとっても魅力溢れる存在である。ただ大人はそれを自分のものとして占有しようとは思わず、その美しさを賞で、その明るさを讃美するだけで満足しているのである。
 こんな分り切ったことを何故述べたかというと、それは我々凡人の欲望は、悟った人から見ればその子のそれとたいして変わらないと云いたかったのである。たわいもない不合理で馬鹿げた欲求にうつつを抜かして一生を終えるのが平均的な人間の姿である。そんな大人に、この子を嘲う資格がどこにあろう。この泣く子を納得させるのはむつかしいが、それ以上にむずかしいのは、これらの愚かな大人たちにその考え方の誤りを悟らせることである。大人たちは、彼らの意識を岩盤の上に建った家のように堅固なものと信じ切って、それが砂上の桜閣のようなもの危なっかしいことを知らないのである。
 それでは常識がどんな点で誤っており、それをどう改めればよいのか、それに対する私の考えは後に述べることにするが、ここではその必要性と重要性を心に留めてもらうことが第一である。
 障害者は今日まで必死になって障害を克服し、死から逃れたいと努力してきたに違いない。そしてどんなにあがいても、それを乗り越える道はないとなかばあきらめているのである。
 しかし、あきらめるのは早い、と私は言いたい。眼の前に、思いもかけぬ突破口が隠されているのである。それに気付きさえすれば不可能も可能となるのである。
 その突破口とは、東西古今の宗教家や哲人によって様々に説かれてきた考え方である。また多くの人々がその道を求めて血みどろの修業をしてきたのである。それは確かに平坦な道ではないが、無限の可能性を秘めた世界へ通ずる道である。
 その道とは、要するに世界観の転換である。今まで信じてきた常識的世界観を徹底的に破壊して、今までとは全く異なる世界観に立つことがそこへ行く道である。平穏無事に暮らしている人にとっては、そんな必要はつゆ感じないであろうが、筋ジス患者のように切羽つまった人々なら、そんな道があると知ったら何をおいても飛びつくに違いない。ただ、そんな旨い話があるものかと信じられないだけである。
 私は筋ジスの人々とこの驚くべき世界の探検に出発したいと願うのである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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