今、福祉を問う (45) 近藤文雄

自己実現

 人は皆、幸せを求めている。幸せにもいろいろあるが、幸せの中で最高のものは自己実現である。それが人生の究極の目的である、と述べた。
 それでは、自己実現とはどんなことであろうか、もう少し突っこんで考えてみよう。ここでいう自己とは常識で考えているありふれた自分ではない。というとどんな自分が他にあるのか、ということになるが、自分とは何かと考えていくととてもむつかしくて、何が何だかわからなくなる。それもそのはず、我とか世界とかいうことは哲学の中での問題であって古今を通じての謎である。アポロの神殿の柱には、汝自身を知れという有名な言葉が刻まれており、それは汝である、などという含蓄の深い言葉もある。
 途中を省いて結論を述べると、東洋の思想では我と世界と、東洋の思想では我と世界とは一つである、という考え方をしている。その際、常識的な我を、小我と呼び、宇宙と一体になった我を大我と呼んで区別している。仏教ではそれを真如と呼び、中国の老子はそれを道(タオ)と呼び一般には天と呼ぶ。神とか仏とか呼ぶものは、実はこれで分り易く云えば、宇宙の根源、すべてのものの根本である。人間である自分が神と一致するなど常識では考えられないが、それは神とは何か、という考え方が混乱しているから理解できないだけのことである。この問題もそれまでにしておいて、自己実現に帰ろう。
 小我ではなく、大我の立場の我が、自分の欲求をすべて満たすのが自己実現である。老子の無為自然というのは、小我の小ざかしい振舞いをストップして、大我のおもむくままに任せる、ということである。何もしない、ということではない。自然は大我である。孔子が心の欲する所にしたがいて規をこえず、といったのは、孔子が大我と一体になり切った心境を現している。仏教でも真如の月などという言葉で宇宙の根源を表現し、それを無明(むみょう)という群雲が散って見えなくなるのだ、という。とにかく自分というものをどこまでも掘り下げていくと、行き当たるのがそれである。その心を自由自在に活動させることが自己実現である。もし、この自己を通俗的な自分という風に解釈して、その思うままに振舞わせるとしたら大変なことになる。それが仏教でいう煩悩の元であり、キリスト教的に云うなら悪魔の仕業となる。
 話が雲の上に行ってしまったので、常識的なレベルに引き下げると、この問題は価値観に帰着する、とも云える。価値観とは、物事の中で何を大切と考えるか、その人の評価の仕方である。例えば、次のような欲求のリストからどれを一番大事と思うのかその人の価値観を表している。旨いものを食べたい、異性が欲しい、金を儲けたい、社会的地位や名声が欲しい、事業を拡大したい、学問の研究をしたい、人を救けたい、社会に貢献したい。
 誰でもこんな欲求をすべて持っているが、その人に与えられた環境条件は必ずしもそのすべてを満たしてくれるようになっていない。とすれば、この表の中のどれを選び、どれを捨てるか、はその人の自由に任せられている。そこでどれを選択するかをみればその人の価値観が分るのである。
 価値観がその人の行動を決定するから、その人の生き方は価値観によって決まる。だから、価値観はその人の人生を決定するといってよい。
 ところで価値観は人によってピンからキリまで差がある。それぞれ自分の価値観の正当性を信じて疑わないから大変である。間違った価値観で一生を棒に振らないためには我々は価値観というものをよく考え、それを洗練していかねばなるまい。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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