今、福祉を問う (46) 近藤文雄

価値観の洗練

 自己実現など訳の分からぬことを云っても俺は知らん。俺は酒が欲しい、女も欲しい。グルメ志向だ。いや、何といってもこの世は金だ。地位が欲しい、名誉が欲しい。
 そんなもの欲しくない、と云うのは嘘だ。誰だって心の中でそう思っているのに、それを偽っているだけだ。俺の方が正直な人だ、などと考えている人もあろう。
 それも一面の真理ではある誰にもそんな欲望はあるからである。しかし、それだけに止まっているのでは視野が狭い、と云われても仕方あるまい。物事は、始めから終りまで、全体を見通さないと本当のことは分らない。一局面だけを見て物を云うのは誤りの元である。
 誰しも快楽を求めている。しかし、それをトコトンまで追求していくと、最後には快楽よりも苦しみを得るようになっている。酒が好きだからといって飲み過ぎれば体をこわす。仕事をするのがいやでゴロゴロしているのが好きだといっていたのでは自分で自分の首を絞めることになる。快楽をどこまでも追いかけていく場合、欲求の方もどこまでもエスカレートして結局欲望は満たされずに破滅だけが残ることになるからである。したがって、快楽を求めたいなら快楽はほどほどに止めて自制する方が最も多くの快楽を享受する道であると覚るのである。
 金や地位や名誉についても同じことである。それを求めない人もないが、求めすぎて破滅した人の例は、東西古今に枚挙の暇がない。
 この失敗の原因の根本には無知がある。物事の全体を限りなく見る眼がなく、自分に都合のよい点だけを見るからに道を誤るのである。
 仏教では貪瞋痴という三つの毒があってこれが人間を苦しめるとい教えている。物事の道理を弁さない(痴)から、どこまでも欲望をつのらせる(貪)。その結果、その欲望は満たされなくなって腹を立て(瞋)自滅的行為に走るのである。この愚かな貪ぼる心を無くしなければならぬ。
 人間の心の一番奥底には汚れない正しい心(真如)があると仏教は説く。この心に従って行動すれば最高の幸せが得られるのに、無知(無明)がその本心を蔽ってその働きを妨げているのである。先に自己実現といったのは、この本心を思うままに活動させるという意味であった。
 この無明の塵を払って明鏡のような本心があらわれることを覚りという。常識は誤りだらけであるから、その誤りを捨てて正しい知識に到達することを転迷開悟といい、これが悟りである。だから、悟りは間違った世界観から正しい世界観への転換と云ってもよい。
 覚った人をブッダ、仏陀、略して仏、という。だから人間は仏になる(成仏)ことができるのである。
 そんな抹香くさい話はいやだという人には論理的な話がよかろう。それなら現代の哲学即ち、現象学や実存哲学を研究するとよい。この哲学の考え方は基本的に仏教のそれと同じであるから、仏教の内容も十分に納得できるであろう。二千五百年前に仏教では己にこのような考え方が完成していたとは驚くべきことである。
 また話がむつかしくなってしまったが、とにかく、物事を深く考えないで欲望の赴くままに行動する人は、人間として幼稚であるといわれても仕方があるまい。しかし、そのような価値感も知性の働きで漸次洗練していけば自ら真善美を強く求められるようになる。そして、それをさらに高じれば宗教的境地に至ることは必至である。このような人間の発達段階については、本欄の(16)ですでに述べているので重ねては云わない。ただ注意したいことは、宗教界には偽物が横行しているからそれに迷わされないことである。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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