今、福祉を問う (48) 近藤文雄

湊先生への手紙 [2]

 唯物論は、物質というものがあるとすれば世界はこういう風に見える、という一つの考え方にすぎません。ですから、唯物論とは反対に、物質があるのではなく心があるのだ、という前提に立てば、ガラリと変った唯心論の世界が生まれます。物質も時間も空間も、自然も人間もすべては心の中に浮んだ幻のようなものだという観念論の世界がそこに展開します。また、物質も心もない、あるのは意識現象だけだ、という前提に立てば現象学の世界が生まれます。唯物論も唯心論も、主観と客観のどちらか一方の上に立って世界を眺めようとするものですから、見方が一方に偏しています。その点、現象学は主客何れにも偏らさず、主客未分の状態で世界を捉えようとするものですから、より中傭を得た考え方であると思います。
 このように、前提が変わればいくらでも変わった世界が成立するのです。美というフィルターを通せば美術の世界が数理を中心に考えれば数学の世界が生まれ、その他倫理道徳の世界、哲学の世界が存在し得るということが解ります。唯物論の世界は、この無数に可能な世界の中のたった一つの例にすぎないのです。それを唯一絶対と思いこんでいる常識はとんでもない勘違いをしていると云わねばなりません。
 信仰を中心とした宗教の世界は、常識の世界と前提を全く異にしていますから、宗教の世界の出来事である奇蹟を常識の世界の考え方で説明しようとするのは理屈に合わないことは初めから分っていることです。それを遮二無二押し通そうとするのは、月世界の出来事を地球上の常識で解釈しようとする以上の見当違いです。
 それに似たことがあります。宗教界の一部の人が、進化論は間違っていると執ように主張するのがそれです。進化論は自然科学の世界の話ですからそれとは全く次元の違う宗教の世界で論じようとするのはお門違いと云わねばなりません。
 信仰を持つ人でも、奇蹟に割り切れない思いをしている人はあるでしょう。そんな人は片足がまだ常識の世界に残っているからではないでしょうか。信仰の世界に入り切ってしまえば奇蹟など何の抵抗もなく越えられるはずです。
 しかし、一方こんなことも考えねばなりません。信仰は必ずしも論理的に理解できるとは限りませんが、当人が論理的に矛盾していると思うことは信じられない、ということです。したがって、自然科学によって洗脳された人は、自然科学に反する考え方を信ずる訳にいきません。物質不滅の法則を信じている人にパンや干魚がいくらでも増えるなどということを納得させることはできません。それを信ぜよという人の方が無理なのです。
 ですから、なまじ学問があると信仰に入れない。むしろ無学文盲の人や赤ん坊のような心の持ち主が真の信者になれる、というのは一面の真理です。学問があってもそれに捉われ、その限界を知らない人には学問は信仰の邪魔になります。しかし、それぞれの学問や経験の限界を知っている人にとっては、学問は邪魔どころか信仰に入る大きな助けになりましょう。アインシュタイン博士や湯川さんは、素朴な物質の概念はとっくの昔に捨てて、物理的世界の成立する根底の追求に専念しておられたのです。そこには神がいますから、信仰とは何ら矛盾しないのです。
 但し、神は対象とはなり得ない主体ですから、世界という作品を制作している芸術家のような神を想像している人は、まだ唯物論的常識の世界から抜け出していないと云わざるを得ません。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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