今、福祉を問う (47) 近藤文雄

湊先生への手紙 [1]

 NHKのテレビ「心の時代」を二度拝見しました。お話は先生のお人柄そのままに大変優しく温かで、しかも肝心な点はピタリと押えておられるので心に滲みました。それに先生のお顔のよいのには驚きました。とは失礼な申し方ですが、正直な所、最初にはっとそう感じたのです。人間四十才を越すと自分の顔に責任を持てと云われますが、今の先生のお顔は正に先生の六十年の生涯の間に作り上げられたものです。そう云えば後から出てこられたお母さんとそのお子さんも、とてもよい顔をしておられました。心はそのまま顔に出るのですね。
 私は信仰のない人間ですが、日頃こんなことを考えています。人間が本当に救われるためには、病人や障害者も含めて、その人が人間的に成長しなければならぬ、ということです。救われるということと成長するということは一つなのですね。その成長も、知的にというよりは情的に、もっと正確にいえば、知情意すべてを総合した全人的に、という意味においてです。そしてその完成は信仰という形でなされるのでないか、と思っています。と云っても、私は信仰を持ちませんから、ただ何となくそんな風に感じているだけですが。
 先生は再生について語られました。再生はキリスト教信仰の中心をなす考え方と思いますが、私は再生や奇蹟を次のように理解しております。肯定的な意味においてです。
 常識では再生や奇蹟を納得できません。納得できないからこそ奇蹟と呼ぶのでしょう。常識人は奇蹟をそんな馬鹿なことあるものかと考え、好意的な人でも、いろくな条件を設定して常識的に納得しようとします。この考え方は、どこまでも常識が正しいという前程に立っています。しかし私は間違っているのはむしろ常識の方ではないかと思います。何故ならば、常識は根本的な大きな誤まりをいくつも冒しながらそれに気附いていないからです。その最たるものは常識は、世界は物質からひきている。いや、物質的な世界以外に世界はあり得ないという考えにこり固まっていることであります。つまり、常識は唯物論的世界観から一歩も出ていないのです。ところが自然科学もたまたまそれと同じような考え方の上に立っていますから、自然科学万能の今日、唯物論的考え方が絶対に正しいという強い信仰が常識人にあります。
 しかし、自然科学にはそれなりの前提があり、したがって、それなりの限界があることをわきまえていなければなりません。孫悟空が筋斗雲に乗って、マッハてかるという凄いスピードで宇宙の果まで行ってきたと自慢すると、それはお釈迦様の手の平の上の往復にすぎなかった、という話が、自然科学や常識にとってはよい反省の材料となりましょう。
 自然科学の前提は、実体のある物質、絶対空間、絶対時間が存在するということで、そこでは、人間の精神は初めから除外されています。したがって、自然科学は人間を物質の魂としてしか扱えないように出来ているのです。とは云え、現実には精神を無視する訳にはいかないので、精神は脳によって作られるという苦しい説明を余儀なくされています。それはとんでもないことで、そんな乱暴な云い方が許されるなら、むしろ、精神が脳という物質を考え出したといった方が正確に近いでしょう。それあらぬか今日では物理学自身が前記のような素朴な唯物論的世界観があり得ないこと認め、ニュートン力学の世界からアインシュタインの相対性原理の世界に移って参りました。つまり、物理学は自らの限度を悟ったのです。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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