今、福祉を問う (52) 近藤文雄

私の教育観

 私と障害児との付き合いはもうかれこれ三十数年になる。そして、いつしか私は門前の小僧よろしく、彼らの教育について手を出し口を差しはさむようになった。身の程知らぬ振舞いではあったが、そこは素人の気易さ、外から教育を眺める岡目八目の立場がそうさせたのであろう。
 私が関わってきた特殊教育はそれらの歳月の間に、制度的には眼を見はるばかりの進歩をとげた。しかし、教育の本質において、果してそれほど進歩したと云えるであろうか、と首をかしげたくなる時もある。
 六歳になった正男君は家の窓から同じ年の子がランドセルを背負って嬉々として登校するのを眺めながら、くやし涙にくれていた。彼は脊椎カリエスのために下半身がマヒしていたが、いくら待っても入学通知が来なかったのである。それにそのはず、学校は彼を拒絶しながら就学猶予願いを出させていたのである。何故ぼくの所にだけ入学通知がこないの、と泣いて訴える正男君に、両親も涙を流しながら説得の言葉に窮していた。それは三十年前のことであった。
 当時、私は国立のカリエス専門病院の院長をしていた。そこにもカリエスのため歩けなくなった子が数人入院していた。もちろん何年も学校を休み、病気が癒る見込みさえたたず、前途を殆どあきらめたような日を送っていた。
 それを見かねた大人の患者や病院の職員が彼らの病室へ行って学習の指導を始めたのである。子どもたちにとっては正に干天の滋雨、学習の機会が天から降ってきたのである。夢かとばかりに驚きかつ喜んで、彼らは必死になって学習に励んだ。いじらしい彼らの姿は教える者の心を激しく動かし、両者の間には単に教え教えられる関係を越えた、純粋な人間愛が芽生えたのである。彼らばかりではない、病院中の患者や職員、はては地域の人々まで巻き込んで、温かい人間関係の輪が広がっていった。それは今から考えても不思議な成り行きであった。人々は、この学校を寝たまま勉強する学校という意味からベッドスクールと呼ぶようになった。正男君はベッドスクールに入学してようやく念願を果たすことができた。
 それから幾星霜、このささやかなベッドスクールは次第に発展して公立の学校となり今では数億円をかけた校舎と数十人の教師陣を擁する県立の大養護学校となっている。入院した子どもは自動的にこの学校に入学する仕組みになっていて、生徒の多くにはもはや往年の燃えるような学習意欲は見られない。また、教師の中にも何故教師が病室へ行って教えねばならぬのか納得できないものが出てきた。生徒と周囲の人々の間にあったあのひたむきさは消えて、あたり前の授業があたり前のように行われている。
 この間の変遷をどう眺めたらよいか、ベッドスクールを単なるセンチメンタリズムと片づけるには余りにも強烈な経験であった。少くとも生徒たちによっては、彼らの人生の主要な部分がベッドスクールでの生活によって占められている。絶望的な苦しみの中で与えられた希望、そこで育まれた純な信頼と愛の人間関係、その思い出は彼らの終生の宝である。彼らの心のより所であり、彼らのバックボーンでもある。その証拠に、今は人の子の親となった彼らはいまだ往年の生徒会、若草会を持ちつづけ、毎年世話になった患者や病院職員の先生を招いて、昔話に花を咲かせ、心の故郷に帰る喜びに浸っているのである。
 教育の目的は人間を作ることにあるが、それは芸術家が彫刻をするのとは訳が違う。彫刻はただの物体にすぎないが、子どもは自由意志を持った主体的存在である。そこに根本的な差異のあることを忘れてはならない。生徒の主体を殺したのでは元も子もない。主体性を活かしきるのが教育であり、それが生徒にとっては自己実現となり、人格の完成となるのである。
 ベッドスクールの子は極限の苦しみの中で自己の主体性を覚り、ボランティアの先生によってそれを育てる機縁が与えられたのである。素人の先生は、ただひたすらに子どもたちの幸せを願い、その希望に応えようと努力しただけであった。教育の理論も技術も十分であったとは云い難いが、そこに単なる教育の場を越えた、裸の人間と人間の魂の交わりが展開していったのである。それこそ人生のエッセンスであり、これ以上の教育はない。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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