今年の二月、滋賀の松本さんより「悦チャンの一周会」の連絡を受けました。昨年、六十五歳で亡くなった悦子さんを、かかわりのあったみんなで偲(しの)ぼうというものです。
 悦子さんと出会ったのは今からニ十数年前。当時は全国でも珍しかった、障害を持った方々の無認可の作業所との出会いと重なります。重症心身障害児施設がようやく造られ、重度の障害の方々にも、何とか光が届きそうな気配が感じられたときでした。当時の、決して楽でない法人施設とも違い、一層大変な自力運営の手作り作業所に彼女がいました。
 懐かしい藤(とう)で編んだ深めの乳母車を底上げして布団を敷き、そこに身動きできない体を横たえ、座布団を丸めてわきに抱えながら、何とか動く左手を器用に使い、洗濯バサミを組み立てていました。
 「ど・ど・こから・来・来・はった?」「京都からです」「ほ・ほ・なら・遠いわ・なあ。オオ・ト・バ・イで、来・来たら、な・夏は・いいけど・今は・さ・さ・ぶうて・い・い・かん。よう・来・来・て・くださった」
 アルバイトを終えて、私が京都の下宿を出たのが夜の九時過ぎ。セーターの上に穴を開けたごみ袋をかぶり、新聞紙を間に挟み入れ、その上にジャンパーを着るという"サバイバル防寒着"姿でした。たどり着いた滋賀県野洲町の竹やぶの中に、当時、専任職員といわれる松本さんの住み家がありました。裸電球の薄暗い部屋に、笑顔で出迎えてくれる彼がいました。
 「寒かったやろ。火でもあたってぬくもってくれや!焼酎(しょうちゅう)もあるし」。ちゃぶ台の上に置かれたガスコンロの上で、やかんがシュンシュン音をたて始めると、体も体もホカホカしてきました。
 かび臭く湿気で重い布団にくるまれることでの安堵(あんど)の中で、彼が二万五千円の給料でやりくりできることの不思議な秘けつがどこにあるのか・・・。当時の私の人間理解をはるかに越えるものでした。
 大学祭で、この無認可の作業所で作った和紙染め、封筒、便せんなどを売ることと、できればこの悦子さんを含めた彼らを、一泊二日で大学祭に連れてくるという計画を立てました。車など持っている学生が奇異な目で見られた当時、車と運転手の手配だけでも大変で、宿泊もするとなれば、困難さだけが見え隠れしました。
 ただ世間知らずのがむしゃらさが功を奏したのか、随分ボロだがまだ動く車と、学生寮のゲストルームでの無料宿泊が用意できました。視覚障害でクラシックが好きなS子さん、知的障害のHさん、それぞれ個性的な面々を滋賀から京都まで、ペーパードライバーの私が運ぶというものです。
 悦ちゃんのトイレ介助をどうするかという難問にも「わ・わ・たし・が・こう・し・て・と・い・う・から・・、お・と・こ・の・ひと・は・いか・ん・け・ど」という彼女の言葉が答えを出しました。
 初めての京都、生まれて初めての宿泊体験。興奮さめやらぬ一日を無事に終え、次の日、大学近くの道路わきに車を止め、悦ちゃんを抱きかかえながら車いすに乗せました。一時間ほど大学祭を見たあと車に戻ってみると、何と、お巡りさんと府警さんが、駐車違反の切符を持って待っていました。
 「免許証を」と言われるや否や「ウォーウ! ウォーウ!」という叫びと、「ギャーア! ギャーア!」という悲鳴が後ろから聞こえてきました。びっくりして振り向くと、車いすの悦ちゃんが体をよじらせ、顔を真っ赤にしながら、すごい形相でにらみつけているではありませんか。「そういうことなら、前もって言ってくれたらよかったのに・・・」と言い残して去っていかれました。
 「こ・ん・な・に・・し・し・て・も・らって・・ばっきん・と・ら・れ・たら、わ・た・し・は・・も・も・う・し・わけ・なくて・・」
 帰る途中、彼女が未熟な私を相手にこう語り始めたとき、私は何か別の価値観とでもいうものにドッシリと支えられているようでした。
(徳島市入田町月の宮)
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