投稿日:2021年08月21日

事務局通信~働かざる者食うべからず

先日、生活保護受給者やホームレスの人に対するある方のインターネット動画(Youtube)での発言が問題になり、この発言に対して批判、非難、抗議の声が多数寄せられる、ということがありました。
発言の内容は侮辱的で品位を欠いたものだと思いますが、特定の個人を攻撃したものではありません。インターネット上のSNSや掲示板では、匿名による差別的なコメントが至る所で公開され、個人を特定可能な情報を晒したり、個人を誹謗中傷するコメントを書いたりして、その人の社会生活を破壊したり、自殺に追い込んでしまう悪質なケースも存在します。
 この方の発言の問題は、発言内容の差別性もさることながら、8万人近い会員を有する独自の動画配信サービスを持ち、多数の書籍を出版し、244万人がYoutubeでチャンネル登録している、という影響力を行使して、差別的な内容の発信を行ったことにあるのだと思います。その発信を受け取った方がどのように感じ、行動されるのか、そこが危惧されるところです。

 新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節に「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節があります。「働こうとしない者」とは、「働く意志をもたず、働くことを拒み、それを日常の態度としている」者のことであり、病気や障害によって働きたくても働けない人や非自発的失業者は含まないと解されています。
 「働かざるもの食うべからず」というレーニンの言葉は、元々は不労所得を得ている資本家たちに向けられたもので、その後制定されたソ連の憲法では、労働は「市民の義務」と記され、社会主義諸国の憲法にも大きな影響を与えました。
 日本国憲法でも、国民は勤労の義務を負う、と明記されています。
 「真面目に勉強しないと、ホームレスになってしまうぞ」と先生が生徒を叱咤激励したり、定職につかない人を「この穀潰し」と罵ったりする光景が見られたのは、それほど昔のことではありません。
子供の頃から見聞きした大人の言動や価値観は気付かぬうちに私たちの心と体にしみ込んでいます。
「生活保護受給者やホームレスの人は働こうとしない怠惰な人だ」
「生活保護を受給したり、ホームレスになったりするのは、努力が足りないからだ」
と考える方もおられるでしょう。
日本は他の先進国に比べて生活保護の捕捉率が低く、生活保護水準以下の所得でギリギリの生活をしている方が少なくない理由のひとつには、「生活保護を受給する」ということに対する否定的な価値観が社会に存在するからだと思います。
生活保護が十分にその役割を果たしていないため、「収容を断らない」「水際作戦もない」刑務所が最後のセーフティネットとして社会的に行き場のない方の受け皿となっていることは周知の事実です
(新規受刑者の2割弱は知的障がい(知能指数70未満)を持つ方で、知能指数70~80未満の方も含めると約42%になります)。
20~50代の1人暮らしの方が生活保護で頂けるお金は年間120万円くらい(徳島市の場合・医療扶助を除く)ですが、受刑者1人当たりの刑務所等運営コストはその2.5倍くらいです。

 裕福な家庭に生まれ、働かずに毎日豪遊しても、「働こうとしないから」という理由で叩かれることは少ないでしょう。働かなくても生きていける境遇を、妬んだり羨んだりする人はいるかもしれませんが…。
つまり、問題とされているのは「働こうとしないこと」ではなく「働こうとせずに他人様の世話になる、迷惑をかける」ということであり、「勤労の義務を全うしない人を助ける必要はない」と考え、「役に立たない迷惑な存在」と見下していく思想につながっていくのだと思います。
「役に立つか、立たないか」という物差しで、人も物も選別していく。「役に立たない物」をゴミの収集日に捨てるように、「役に立たない人はいらない」と捨てる。「使えねぇ奴」「クソキャラ」といった言葉の裏側にも、同じ思想が重なって見えてきます。
問題となったYoutubeでの発言に対し、公の場で実名で賛同の意を表明する方は稀かもしれませんが、密かに賛同されている方は少なからずおられると思います。
お国のために命を捨てることが美徳で、拒めば非国民と罵られた時代から80年、コロナ禍で強調された「命を守る」という思想の歴史の短さを改めて思います。

 情報発信の手段がテレビ、ラジオ、新聞、書籍くらいしかなかった時代とは異なり、インターネットの普及によって個人による情報発信のハードルは著しく下がりました。例の発言をされた方自身は少なくとも年間数億円以上を稼ぎ多額の納税もされているそうで、生活保護受給者やホームレスの人に対して思うところもあるのでしょう。いかに差別的な考えを持とうと、それはその人の自由です。
ただ、その差別的な考えを社会の公の場で表明することを、どこまで許してよいのか。私たち一人一人が考えていく課題なのかもしれません。(文責・小山)


















































































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