今、福祉を問う (6) 近藤文雄

非情な施設排斥の声

 コブラという毒蛇がいる。インドの蛇使いが笛を吹くと壺の中から蛇が首を出して踊るあの蛇である。人間がこの蛇に噛まれると死ぬが、マングースといういたちに似た動物はこの蛇を好んで食うという。すばしっこいから滅多に噛まれることはないが、万一噛まれても平気である。コブラの毒はマングースにはちっとも利かないからである。あの猛毒にびくともしないとは驚きである。
 ところで、人間の中にもマングースのようなものがいるといっても、毒蛇に噛まれても平気というのではない。人間らしい感情を持ち合わせていないために、普通なら胸が痛んで見ておられない他人の悲しみや苦しみを、屁とも思わないのである。二月四日付け本紙に半沢先生が挙げられた酷い障害者差別の事例はこれらの人々の仕業である。彼らは何のためらいもなく障害者を人間の屑と呼び、自分たちに近づくことを拒否し、町長までが先頭に立って障害者の人権を侵害してはばからないのである。もし彼らが自分の心を写す鏡を持っていたら、己のあさましい姿に脂汗を流すに違いない。彼らを見ていると、戦地で無辜の民に暴虐にな行為を働いた軍人を思い出す。なぜこんな異星人のように心の通わない人間ができるのであろうか。
 まず考えられることは、先天的な性格の異常である。なる程、生まれつき思いやりの心の強い人と弱い人はあるがこの心を全く欠いているという人はないはずである。とすれば、その人が育った環境が悪かったために、生まれた時には持っていた優しい心を途中で枯らしてしまったのであろう。
 その他に人間らしい感情の喪失を助長するものとして無知があると思う。井の中の蛙のような狭い経験と世界観、論理的にものを考える訓練の不足、それに次に述べるような障害者に関する理解の欠如など、無知にもいろいろあるであろう。私の知っているある女学生は、初めて施設見学に行った時、帰り道で気分が悪くなって吐いたという。初めて障害者に接した人がその異様な情景に驚いて拒否的な感情を持ったとしても不思議でも異常でもない。しかし、訪問の回数を重ねる中に違和感は消え、反対になぜこの子が同じ人間に生まれながらこんなに苦しまなければならないのかと、同情する気持ちがつのってくるものである。この女学生も最終的に施設で働く道を自ら選んだ。そんなこととは知らず、障害者を見たこともない人間が、無責任な人の話を鵜呑みにし、まだその上に勝手な自分の想像をつけ加えて、だから施設に反対するというのは余りにも浅慮かつ残酷と云わねばならぬ。
 もう一つ無視できないのは民主主義のはき違いである。民主主義は何が何でも個人の権利を認めるというのではなく公共の利益のためには自らの進んで自分の権利を制約するところに重点があるのである。
 もしもこんな誤った民主主義を後盾にして障害者を差別しているとしたら、それは喜劇にもならぬ愚かな話である。
 施設をつくる時に反対はあっても、施設が出来上がった後は施設と地域社会の関係はみんなうまくいっている。この事実は施設反対がいかにいわれないものであるかを証明している。(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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