人間の本性は善か悪か
障害者施設建設を妨害する心なき人々のことを書いたが、この人たちも自分の気持を正直に表現している。一方、障害者のために一生けん命尽くしている人も自分の本心に忠実に行動しているのである。ところが一方では非難され、他方は褒められる。その違いはどこから来るのであろうか。違いを計る物差しは、その行為が社会のためになるかどうかという基準、即ち、道徳である。障害者を苦しめることはいくら正直であっても道徳的に許せない、ということである。
それでは、社会をよくするためなら、四の五の云わせずに、社会にとって必要なことは何でも強制的にやらせれば手っ取り早く片づくではないか、ということになる。現に全体主義社会ではそうしているし、日本でも戦争中はそうだった。このやり方がいけないのは、人間にとって一番大事な自由を奪って国民を奴隷にするからである。国民が自由に考え、自由に振舞ってしかもそれによって社会がよくなることが理想である。そうなるためには、国民の一人一人がキリストの弟子のように立派になることが必要である。自分さえよければ他人はどうなってもよい、という人間がいる限りこの理想は達成できない。この問題は何千年も昔からくり返し論ぜられた古くて新しい問題である。試みに古代中国の二人の思想家の考え方を紹介してみよう。
二千三百年ほど前、孟子はこう云った。人間はだれでも生まれつき四つの美しい心の芽を持っている。この芽を大事に育てればみんな立派な人間になれる、と。これに対して苟子は、人間の本性は悪であって、善というのは偽りであると反対した。だから悪いことをせよ、というのではなく、だから悪いことをさせないように指導監督しなければならぬ、と苟子は云うのである。どちらも一理あるが、孟子が云うようにすべての人間が立派に成長できるならよいが、現実には悪い人間がいっぱいる。また、苟子の云うように、本性が悪ばかりだったら悪いことをさせないように指導するという心はどこから出てくるのであろうか。
本当の所、人間には自分の利益を求める心と他人のために尽して喜ぶ心が同居しているのである。しかも、この二つが同時に活動するから、アクセルとブレーキを同時に踏んだような混乱がおこるのである。しかし、この心理的葛藤の中から道徳が生まれるのである。
も一つ別な側面から観察すると、我々は美しいものを好み醜いものを嫌う心、正しいものを採って偽物を捨てる心善を喜び悪を恥じる心がある。つまり、人はみな真、善、美を求めているのである。しかし凡人は同時に、官能の楽しみを追い、物欲、名誉欲、権勢欲などにも駆られている。それらの中、どれを大事と思うか、それがその人の価値観である。人は自分の価値観に従って行動するが、価値観は変化するものである。人間が成長するとともに進歩し洗練されてくることは審美眼と同じである。幼稚な人間は自己中心的で、官能の満足や物欲名誉欲に高い価値をおくが、人間的に成長した人はそれらのものには一顧もせず、真善美の追究に最高の価値を認めるのである。そして、その極は神の世界に至るのである。そこまでくれば自利、他利の区別はなく、自分と他人の区別すらない広大な愛で全人類を包むようになる。それが理想的な世界の姿である。(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)
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