今、福祉を問う (9) 近藤文雄

福祉の尖兵(施設職員)の責任

 先に私は、国民の幸せを守ることが政治の最高の目的であること、福祉行政の責任の重さとその取るべき施策の方向について述べた。ところで施設の職員に、福祉行政の最先端にあって福祉諸施策の実行に当るものであるから、彼らが福祉行政を仕上げる我龍点晴の筆を握っている、といってよい。いかに優秀な飛行機を造り整備を完全にしても、パイロットが駄目だったら、その飛行機には危なくて乗れないように、いかに福祉制度を完備し、立派な施設を造っても、肝心の職員が障害者や老人を軽視し自分本位の運営をするなら、それまでに積み上げた関係者の努力はすべて水泡に帰するであろう。
 私はこの三十年余り、数多くの施設の経営に当たってきた。大きな国立病院、小さな個人病院、日本で初めての重度障害者の収容授産施設、教育施設、精薄施設から盲・聾の施設まで。そこで私が見てきた職員の資質は千差万別、ピンからキリまでの差があった。一方には、こんなすばらしい人物が現実にいたのかと感嘆する程のものがおり、他方には箸にも棒にもかからぬとサジを投げるようなものまでいた。施設にこのように多種多様の人間がいることは、人間社会としてはむしろ普通のことであろう。その中で並はずれて低俗な人間には、生まれついた素質の他にそれを助長するある種の無知が常に底流にあるように私は感じてきた。もし彼らの誤った行動が無知に起因するものとすれば、その部分は救済する余地がある。それは決して容易にできることではないが、どこをどう勘違いしているかが分れば、その誤解をとき、彼らを納得させ、行動を改めさせることが出来るのではあるまいか。私が今日までいろいろのことを述べてきた理由もそこにある。
 このような意味から、施設職員に考えてもらいたいことは多いが、まず一言でそれを言うなら「優しい思いやりの心」の重要さである。
 この心は多分に情緒的であって、その人の人格から滲み出てくるものであるから、思いやりの心を持てるものでもなく、持つなといわれても捨てられるものでもない。しかし、適当な環境条件の下では徐々にこの心を目指せさせることはできるのではあるまいか。例えば、優しい思いやりが日常生活の中に溢れている家庭に育った子には自然にその心が身につき、反対に競争ばかりで常に人々が対立している環境で育った子は、思いやりの心を持っていても枯らしてしまうであろう。
 施設内で優しさが貴ばれる環境をつくるには、指導者、特に施設町の人となりが非常に大きな影響力を持つ。事務処理能力がいかにたけていようと、自己の理想も夢もなく職員のいいなりになって事なかれ主義に徹するものは、コンピューターの働きしかしていないと云われても仕方があるまい。部下に人格的感化を及ぼす能力のない者は長たるの資格に欠けると私は思っている。そして、そのような人物を安易に他の都合で任命した責任者は福祉を軽視するもので、その責任が問われなければならない。(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

[前へ] [indexへ戻る] [次へ]