美しい心を育てよう
ある講演の記録を読んでいて驚いた。
ちえおくれの子の施設に街の子が来て一緒に遊んでいた。遊具を使う時、一人の子は施設の子にお先にといって譲った。何故ときくと、あの子が先に使いたがっていたから、といった。他の子は施設の子をつきとばして自分が使った。何故ときくと、自分の順番が先だったのにあの子が先に使おうとしたからだ、と答えた。いずれもよく見かける風景で何といいうこともないが、驚いたのはその解釈の仕方である。
前の子は、施設の子に対して自分が優位に立っていると自覚しているから譲ったのであって、その子は差別をしている。後の子は、差別をしないで平等と思っているから争ったのだという。なる程、一理ありそうに見えるが、この考え方には何か一つ大事なものが欠けているようには見えないだろうか。
これは類したことがある。障害者は同情はいらない、理解して欲しいのだ、という言葉である。これは誰かが云い出したものであるが、障害者やそれを代弁する人たちが好んで使っていた。これも一番大切な心を忘れているように思われる。その原因は、同情という言葉の誤解からくると私は思っている。
その人は、同情とは人を見下した態度であって、極限すれば、苦しみ悲しんでいる人を眺めて自分が優越感に浸っている状態と考えているのであるまいか。同情とはそんなことではない。同情とは情を同じくすること、つまり相手と同じ気持になるということである。英語のシンパシーも同じで、シンは共に、パシーは、感情であるから、相手と感情を共にすることである。相手と同じ気持になればこそ、苦しむ人を見てはたすけずにおられなくなり、何らかの行動に出るのである。いくら理解しても感情が働かない限り行動には移らない。また同情すればよりよく相手を理解したいと思うようにもなる。それに反し、理屈をこねる道学者や大学で福祉を活ずる先生で、ボランティア活動に参加しようと考えたこともない人は理解だけがあって−本当に理解しているとは云えないが−情がないのである。同情こそすべての原点であって、これをおろそかに考えてはならない。
遊具を争った子の方がよいという考え方には、人間が対等に立てば当然争うはずだ、という前提がある。
対等な立場に立てば当然争う心しかない、という考え方は余りにも片寄っている。人間には確かに争う心はあるが、同時にたすけたい、譲りたいという美しい心もあることを忘れては大変である。私は強調したいのは、人間なら誰でも持っているこの美しい心の芽−孟子はこれを辞譲の心といった−を確認し、大切に育てよう、ということである。
海千山千の人生経験を積んだ人が、所詮この世は金と女だよと割り切って悟ったような気になっているのは愚かである。人は皆親切だという甘い考えでは世の中を渡れないし、人間としても頼りないが、人間の心の美しさを知らない者はもっと哀れである。そのような人は、緑豊かなオアシスのあることを知らず一生砂漠で暮らすようなものである。気の毒という他はない。(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)
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