今、福祉を問う (13) 近藤文雄

思いやりの心=愛(2)

 先に述べた、施設職員の理想像は、普通一般の人間にとって虚像のように見えるかも知れない。しかし少数の資質に恵まれた人々にとっては間違いなく現実である、虚像と見る人々の考え方を分析してみよう。
 第一に、他人を自分同様に考えるなど、とてもあり得ない。苟子のように心から人を愛すなどというのは偽りであると見ているのである。だが、そう断定するのは早い。前にも云ったように、人間は善とか悪とかに固定されたものではなく、善悪両極の間を絶えず浮動しているものである。したがって、同じ人間でも時と場合によって、その気持は上下にはげしく動揺するものである。その証拠に誰でも他人に尽くしてよかったと思う経験の二つや三つは持っているであろう。とすれば、その気持が非常に強い人があっても不思議ではない。何でも、狭い自分の経験を基準にして判断するのは井の中の蛙に等しい。
 他人を思いやる心の究極は愛である。愛という言葉は随分誤解されている。男女が互いに好きになると、すぐそれを愛と呼んではばからないが、とんでもない。好きになっただけではまた本能の段階であって愛など云える代物ではない。ただ愛の入口にいるとは云えるが、そこから愛の門をくぐるかどうかは分からないのである。だから、可愛さ余って憎さ百倍などいう反対の方向にいく可能性すらあるのである。憎さが強いのは愛が強かったせいではない。相手に求めるものが大きかっただけに、それを逃がした怒りが大きいのである。本当に大きな愛であったら、愛を失っても悲しみはしても憎むことはない。愛は求めるのではなく与える心だからである。好きだからすぐ結婚だ、肉体関係を結ぶのは自然だというのは愛の本質を知らない、本能にふりまわされている人間の云うことである。真に愛するなら、その行為の結果が相手を幸せにするという確かな見直しがあった上でなければ出来ない。もしそれが相手を不幸にする虞れがあるなら自ら身を引くはずである。本当の愛は二人の心が完全に一つになって、喜びも悲しみも完全に一致した時にはじめて云えるのである。
 純真無垢の愛は母と赤子の間に典型的な形で見られるが愛は兄弟、隣人、師弟の間と限りなく拡がり、究極的には全人類の間にまで及ぶ。自分の子は溺愛するくせに他人の子には鼻もひっかけない親があり、自国は愛するが他国の苦しみは屁とも思わない国民は、真の愛というものを知らないものである。そんな人間はちょっとした感情の行き違いでガラリと態度を一変する恐れのある人間である。
 太平洋戦争が終った時、蒋介石は恨みに報いるに徳をもってする、といい、百万を越える日本人を無事日本に送り帰してくれた。この言葉は老子から出ているが、これこそ東洋道徳の極致である。キリストの愛、仏の慈悲に通ずる広大な愛といってよい。こんな大きな愛の話をきくとつい尻ごみしたくなるが、愛はそう大層なものではない。我々日常生活の間にいつでも見られる純な思いやりの心が愛である。この美しい思いやりの心に注目し大きく育てようではないか。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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