障害者も対等な仲間
重度の障害者も社会に欠くことのできない一員である、などといっても納得できない人があろう。それどころか、社会に何の貢献することもできず社会の負担になるばかりの重度の障害者はいない方がよい。早く死んだ方が社会のためにも本人のためにも幸せである、という人がある。口には出さないがそう思っている人は少なくない。また、働かざるものは食うべからずという言葉を定義通りに解釈すれば、重度障害者は死ぬより他にないように思われる。
こんな考え方にも一理ありそうだが、それは障害者を無視した健常者に都合のよい、一方的な独断である。ある脳性麻痺の患者が云った。もし親が自分を殺しにきたら自分は親を殺すだろうと。我々が求めているのは、強者にも弱者にも偏しない、真に人間の守るべき道である。
人間の社会は放っておけば弱肉強食の阿鼻叫喚の世界になるか、それとも、弱者を皆で守っていく慈悲に溢れた世界になるか、それは分からない。恐らく両者の入り混じった混沌としたものになるであろう。強者は弱者を思いのままに支配できる世界をよしとするであろうが、強者はいつまでも強者の地位に止まることはできない。いつの日か老いさらばえ、病に倒れ、不慮の災難に遭うことは必定である。その時になって、強者の理論を撤廃してくれといっても遅い。だから、どんな事態になろうとも、社会の弱者は皆で守っていく、という仕組みを作っておけば、何の心配もいらないのである。
しかし、この考え方は、功利的であって、結局は自分の利益を求めているのだから、余り倫理的とは云えない。真に人の道にかなった考え方とはどんなことであろうか。
障害者を皆で守っていこうという考え方の根底には愛がある。愛とは、母と子の間のように、二人の心が一つになることがある。愛のある所、障害者と健常者の心は一つであり、二人人格は全く対等である。人格が対等である以上、障害者も社会の一員として、その人権を享受し、その義務を果したいと願うのは当然である。この希望を満たすためには、社会は障害者を除外することなく、社会の一員として温かく迎え入れ、その機構の中に組み込まれなければならない。
障害者だから何もできないということはない。障害は一部であって、その他においては健常であるから、その持っている能力を発揮すれば必ず何がしかの貢献はできる。そこに社会における彼の席が認められるのである。柳沢監督が云っていたが、重障児の撮影をしていた時、ものが云えない子が一生けんめい自分のお尻を持ち上げて、介護者のおしめの交換を楽にしていた。それも、また、身動きもできない人が精一杯の感謝をこめて看護婦に会釈するだけでも、その心は人に通じ、社会の一員に組み込まれる機縁となるのである。
石垣は大きな石ばかりで積まない。その隙間に小さな石も石をはめこめば、小さな石も石垣の構成に加わることができる。障害者にも、その能力を生かす機会を与えれば、社会は彼らを仲間に加えて、一層その内容を豊かにするであろう。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)
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