物という実体はない
唯物論でも唯心論でもないも一つの一元論について述べる前に、予備的な考え方を述べておこう。
我々は物質というものがある、と信じて疑わない。しかし、我々が直接に知る(認識)ことができるのは、物そのものでなく、感覚だけである。見たり触ったりする時、我々は直接物そのものを見たり触れたりしている、と思っているが、よくよく考えてみれば我々が確認しているものは視覚と触覚にすぎない。我々は見たり触れたり、つまり、視覚や触覚を受取りながら、その奥に物そのものがある、という推測をしているにすぎないのである。
我々の常識は、最初に物があると考え、物があるから見えるのだと思っている。物がなければ見えるはずがない、これが常識の考え方である。それでは何故物がある、と云えるのか。それは、物が見えたり触れたりできるからである。それなら、見えもせず、触れもしなかったら物があるかないか分からないではないか。つまり、見たり触ったりという感覚がまずあって、その後に物があることに気付くのである。いや、物は気付く前から存在していた、と云うかも知れないが、それは厳密な意味では正確でない。我々が間違いなく存在する、と云えるのは見たり触ったり、という感覚(五感)があるということだけで、その感覚の元になる物がある、とまで云うのは行きすぎである。これは丁度、火のない所に煙はたたぬという話によく似ている。煙が見えるから、火がある、と断定するのは行きすぎである。なぜならば、煙は火がある時にも出るが、火がなくなっても出ることがあるからである。だから、正確を期するなら、煙が見える、としか云えないのと同じことである。
ちょっと分かりにくい話だから、も一つ例をあげて見よう。テレビの画面にはいろんな人物や風景が出てくる。その出てきた画像は、要するに三原色の無類の点の集まりにすぎないことは誰もが知っている。テレビの人物や風景が光点の集合であるように、我々が物と思っているものも、実は、感覚の集合、即ち、視覚、聴覚、臭覚、味覚、体覚(触覚)という五感の集合にすぎないのである。テレビの画面に本物の人間がいないように、我々が現実に存在すると信じ切っている物資も、実は、感覚(正確にいは意識現象)の集合にすぎないのである。
まだ納得できないかも知れないが、今、仮りに、物質などいうものはないと無理に考えたら、これまでの所を読み返してみれば、あるいはなるほどと思えるかも知れない。
この考え方は実に大きな世界観の転換である。いわゆるコペルニクス的転回である。コペルニクスは、従来人々がすべての天体は地球を中心に回転していると思ったのに、そうではない、地球が回転しているのだと云ったのである。その時人々の受けた衝撃は大変であったが、この考え方の転換もそれに匹敵するくらい大きい。
まあ、このくらいのショックでも受けない限り、生死を超越することなどできないであろう。仏教でいう、色即是空とはこの考え方であり、哲学の現象学もこのように考えるのである。この考え方は必然的に、心にも実体はないという方向に展開する。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)
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