今、福祉を問う (49) 近藤文雄

湊先生への手紙 [3]

 先生はお話を愛で締めくくられましたが、現実の世界では愛の美しさや重大さが見逃される場合が多いですね。私は人生のエッセンスは人間関係にあると思っていますが、物が間に介在するとそれが邪魔をして道筋が見えなくなります。本来、物はよい人間関係を創るための補助手段であるべきなのに、どんな欲望でも満たしてくれる物の魔力を見ている中に、手段を目的と取り違えるようになるのですね。
 戦中、戦後の困難な時代を経験してきた我々の世代は、金で買えない人情の有難さを見にしみて知っていますが、平和で豊かな時代に生まれ育った子には何でも買えるものと思っているのでしょうか。少なくとも、金さえあれば何とかなるという漠然とした期待が心の底にあるように思われます。本当に絶望的な経験をしていない甘さ故でしょうか。だから煩わしい人間関係を持つよりは他人と断絶しても、金で解決する方が楽で賢明なやり方だと考え、金を儲けることを優先するのです。それも若者の新しい環境に適応する能力の現われかもしれませんが、その結果美しい人と人との心の交流まで切り捨ててしまうとしたら、そんな大きな損失はありません。先生はそのことを指摘なさかったのですね。
 人間関係には、協調的な関係と対立的な関係が避け難く同時に存在します。協調は人間関係を維持発展させ、対立はそれを破壊しようとします。その相反する二つの傾向が同一人の心の中に同時に存在することは一見矛盾するようですが、その中で一方だけが、存在するということは論理的にもなり得ません。対立を考えない協調はなく、協調を考えない対立はあり得ないからです。それは丁度、互いに対立する音や色彩が対立しつつ協調して美しい音楽や絵を創り出すように、対立と協調という人間関係の中から愛という美しいハーモニーが生まれると思うのです。対立する多様な音や色彩を雑然と並べただけでは音楽にも絵にもなりません。全体としての統一がないからです。そこにハーモニーという統一があって初めて音楽となり絵となるのです。人間関係を統一する最も望ましいものは愛でしょう。憎しみという統一の仕方もあり、我利という仕方もあるでしょうが、最もすばらしいのは愛による統一だと思います。
 といっても、人間の心の中にもともと愛が欠けていたらどうにもならぬことですが、先生は誰の心の中にも、人を愛し、人から愛されたいという気持ちが備わっている、と云われました。私もそう思います。キリストも仏陀も始終愛の重大さを説き、実践されました。宗教の目的は自分ばかりでなく、人を救うところにあり、これは愛によってなされるものだと思います。愛即信仰とは云えないでしょうが、神の国に入った人は必ず大きな愛を持ち、愛を伴わない信仰はないと思います。仏教でも、仏教の真髄をきわめる時、即ち、覚りは直ちに悲に転化するといいます。覚れば直ちに仏の大慈悲に転化するといいます。羽化した蝶が必然的に羽ばたくように。我々俗人もすべて仏になる性を備えているのですから、愛の芽ばえはもっております。その力は小さくとも、それなりに小さき者のために役立つことができれば幸いです。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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