「生まれは博多と。こげん大きな体でも、なかなかいうことばきかんと。まあ宝の持ち腐れとも言われるとよ」。百八十センチを超える身長にひげ面、屈強というよりはバネのありそうな体つきの優男があいさつをしました。
 見上げながら「あの・・・、工学部から転部して随分回り道をしてきたので、年ばっかりくってしまって・・・、なかなかゼミの雰囲気にもなじめず、やはり女子学生が多いというのは、ちょっとした脅威ですね」。しどろもどろの返事を交わすことで、その場を取り繕う私がありました。
 初対面にしては何か親密感というか、同類というようなにおいをかぎとった感じがしました。
 彼は高校を卒業した後、日本一周をする資金を捻出(ねんしゅつ)するため、アルバイトに精を出していました。そのときバイクで車と衝突、七ヶ月余りの入院生活を送る運命に遭遇しました。
 「自分の人生組み替えんといかんしゃったね」「初めはどげん生きたいか、分からんかったとよ」。そう語る彼のジャケットを脱ぐ右腕が、ほとんど動かないことに気がつきました。「ソーシャルワーカーという仕事があることを病院の先生から聞いたと。そんならと思って社会福祉学科にきたと」。私と彼との回り道の中身の違いに、何やら後ろめたさを感じました。
 そんな彼が、大学のゼミと卒論を残して実習に入った所は、S学園という知的障害を持った子供たちを普通学級に通わせる運動をしていた福祉施設でした。
 実習といっても単位には関係なく、食費と部屋代を払って施設に住み込み、勉強するというものでした。生活を共にする子供たちとどうかかわれるのか、自分の生き方探しを兼ねたものです。彼は週に一回、施設に休みをもらい、片道二時間かけてゼミにだけ顔を出すという生活を一年近く続けました。
 「また、こげんバイクに乗っとる姿みたら、おふくろ腰抜かすとね」と言いながらゼミに通う彼の姿を、いつしか心待ちにする私がいました。「S学園の採用試験受けてみようと思っとると」。ぽつりと漏らした言葉に、自分をかけてもいいという意思らしきものが感じられました。
 S学園の創始者である園長先生は、ユニークな個性の持ち主でした。社会福祉法人という枠組みで支給される公費では、雇える職員が少なすぎるということで、園長先生が全国を回って講演し、出版物を販売して資金を集めていました。その収入と寄付によって職員を補充するというやり方で、施設を運営してきたようです。
 いろいろな才能を秘めた職員を広く採用したいという思いと、雇用条件の良さ、ネームバリューもあってか、その年は全国から二百五十人の応募者があったと聞きました。書類選考で五十人に絞り、面接などを経て二人が残りました。残念ながら、彼はその中に入りませんでした。
 「主任指導員と主任保母がどうしてもあかんと言いよるが、S学園に骨を埋める覚悟なら私が採用させる。どうや、やってみるか」「採用の人選に、一人一票制という枠で職員を参加させるやり方に、最近疑問を持つようになったんや。民主的でええと思って始めたんやが、平均的で可もなし不可もなしという感じの人ばかりが残ってしまって。何かを切り開くとか、先をどうするかという新しい発想が生まれよらん」
 園長先生にそう言われた彼は部屋の荷物を整理し、その日のうちにS学園を去りました。「骨まで埋めろと言われたら踏ん切りがつかんとよ。主任指導員さん、主任保母さんにも聞いたと。何か悪かことあると、と。子供たちと掃除をするときの態度が悪かと、鼻歌まじりで一生懸命さがなかと、と言われたと」
 「せっかくのチャンスやのに、園長先生の厚意を裏切ることにもなるんやないの・・・」。彼に言った私のうわべの言葉がボロボロ崩れていきました。その後、彼はもう一度人生の組み替えを行い、福祉の道から一般企業に方位を向けました。
(徳島市入田町月の宮)
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