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「大変ですね、こんな形で福祉の仕事をされて。頑張ってくださいね」。時々、こんなありがたい言葉を掛けてくださる方々に、お目にかかるときがあります。 私自身どちらかといえば、偏屈者の範疇(はんちゅう)に入っているという自覚があるせいか、どこか口ごもってしまって、普通に話すことが難しく、妙に構えてしまう自分に出会います。 こういう自分をひもといていくと、どうも自分の両親との関係や価値観、世間の常識とでもいうものに突き当たります。 子供が両親の愛情を獲得しようとして、必死にもがき、自分の心をどこか殺しながらも、親の期待や価値観を必死になって追い求めていく身を粉にしながら育て上げてきたという、厳しい現実を子供が感じていればいるほど、痛々しいものになります。うまく、そのレールに最後まで乗り続けることができたほんの一握りの子供を除いて、多くの子供たちは挫折を味わうことになります。 「福祉もいいけど、自分のことも考えんと」「ボランティアもいいけど、自分のことがちゃんとできて、その空いた時間でやるのがきちんとしたボランティアと違う?」 最初はこの程度で済んだ言葉がだんだん変化し、「本業をおろそかにして、お前はいったい何を考えているのか」「お前をボランティアにするために、必死で学費を送っているのとは違う」という言葉に変わったりします。 「社会に貢献するため、自分は必死になって、このボランティアをやっているんだ」「福祉こそ、人間の最高の道だ」ということで、自分自身やっているわけでもなく、どちらかといえば、今までどこか自分を殺しながら合わせてきた物差しとは別の世界に、気が付いたら引き込まれてしまっていた、とでもいう感覚がありました。 それだけに、そのことをしっかり伝えるだけの力量もないまま、ズルズルと方向転換をしてきた自分を、良い子の自分が責めたてます。落ちこぼれの自分を引きずりながらの福祉の世界は、今度は「福祉の本道」からも自分をそらせていきます。 「障害を持った子供の先生になると思ったら、わけの分からんことを始めて・・・。恩義でもある人の子供ならいざ知らず、全く関係のない他人様の面倒をみる必要はないんと違うん。福祉も必要かもしれんが、なんでお前がこんなことやらんといかんのか」 「自分のことも満足にできん半人前なのに。もっとお金があって、遊んで暮らせる人が自分の名誉のためにすることと違うん。もしお前が事業に成功して、その余力で福祉をやるんであれば、それこそ偉い。おだてられてやっているんだったら、さっさとやめたら・・・」 「建前は結構なことですなあ、とみんな言うけど、本音は自分の子供にはそんなことさせたくないのが、世の中の親の常識と違うん。福祉がどうしてもやりたくて、教員免許もあるなら、そういう子の先生になるのが筋と違うの。それであかん理由が、どこにある」 そんな言葉がポツリポツリとこぼれてくればくるほど、自分の心はキリキリと痛みます。 「・・・これが私のふるさとだ/さやかに風も吹いている/年増の低い声もする/ああおまえは何をして来たのだと・・・吹き来る風が私に言う」 中原中也の詩を口ずさみ、剣山に通ずるワインディングロードをたどりながら、体中に風をいっぱいに受けて、モーターバイクに身をゆだねると、不思議と心が軽くなり始めました。
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