徳島新聞「ぞめき」原稿 杉浦良
No.54 「老いることの意味」 二〇〇六年九月三十日
八月の終わり、徳島市籠屋町にある『街の中の喫茶店あっぷる』で幸田文一先生(徳島文理大学)の講演がありました。長年、精神保健福祉センターの所長として、また一人の精神科医として、徳島の精神保健福祉を陰ながら支えてこられた先生が「精神障害者の『地域支援』についてー彼らと共に歩んできた日々」と題され、初老期軽快(晩期寛解)について、M・ブロイラーやミューラーをひも解きながら解説されました。
「統合失調症(以前は精神分裂病と呼ばれていました)患者が高齢になると、症状が治まり(寛解)、快方に向かうことが早くから知られていたが、どうしたことか、荒廃し不治の病というイメージが先行してしまった」と話されました。文献上の事例紹介として、二十歳代で不眠、意欲低下、被害念慮などの出現により通院。四十五歳で死に対する恐怖、被害妄想、体感異常などにより入院。五十歳代半ば以降は病的体験が目立たなくなり、六十歳代では家事も普通にできるようになって現在夫婦で温泉に行く事を楽しんでいるという例。さらに、十代のころ社会不安の治療を受け、三十代からラジオと対話したり終日部屋の中をはいかいするようになり入院。五十歳のころ、母親に代わり新築する家の段取りをし、母親の葬儀も務め上げ、親族との関係も改善されて、日常を破たんなく過ごしている、という例を取り上げられました。
若い頃はあれもこれもと欲張りながらの生き方が、年を取るにつれ、気力も体力も衰える中で、いや応なく重要なものとそうでないものを区別することとなり、同時並列的な生き方から、優先順位を付けながらの生き方にシフトしてくる、そのことが「老成」とも呼べる人間の叡知であり、五十歳前後に再適応という新しい展開が始まるのではないか・・というわけです。
年を取って回復された方々の背景に、仲間の存在、遊びや趣味を持っていること、周囲から強制されたものでない「役割」を持っていること、家族の支援や経済的背景があることなどを挙げられました。地域社会の中で生きていくことの重要性を改めて確認させられるとともに、老いることの積極的な意味を再発見させていただきました。
「若さ」や「スピード」や「明快さ」がメジャーな今日このごろ、その対極に今回のお話があるように感じました。(杉)
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