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徳島新聞「ぞめき」原稿   杉浦良
No.86 タイトル「ベッドスクール」

 昨年暮れ、宮城県立西多賀養護学校創立五十周年記念誌『道』が送られてきました。
 昭和二十九年、宮城県の玉浦療養所には、カリエス(骨関節結核)の患者さんが二百名ほどおり、その中に数名の義務教育途中の子供達が含まれていました。進級できずに病院で過ごす子供たちに、身動きできるまで回復した患者の一人が、ボランティアで読み書きを教え始めました。それが西多賀養護学校のルーツです。
 当時、病院で勉強をすることは認められていませんでした。しかし一生懸命勉強する子供たちを見て、療養所の職員は黙認するだけでなく、この患者と一緒に、薬剤師は理科を、看護師は保健体育を、栄養士は家庭科を教えながら、その輪を広げました。しかしそれはあくまで内証の話で、昭和三十年九月に赴任した新所長が、子供たちの教育の必要性を説くことで、晴れて表に出せるようになりました。未認可養護学級の誕生です。
 年間の授業や成績の資料を持って出身学校を訪れ、進級や卒業の承認をお願いしましたがなかなか難しく、「義務教育の進級は成績の良し悪しでではなく、学校に出席することが条件だから」とか「勉強すると病気が悪化するから」など、当初は県教育委員会も慎重な姿勢でした。
 最終的には熱意が実り、病院内に分校が設置されました。昭和三十二年四月、小学校一年生から中学校三年生までの二十三人に対して、担当教師一人が認められ、患者や職員によるボランティア先生たちは、そのサポートを引き続き行いました。玉浦ベッドスクールの誕生です。
 昭和三十五年、玉浦療養所(骨関節結核の療養所)と西多賀療養所(肺結核の療養所)が統合され西多賀療養所となり、もともと西多賀療養所にいた肺結核の児童十名が入り西多賀ベッドスクールとして生まれ変わりました。その後、西多賀療養所は国立西多賀病院となり、昭和四十八年に分校西多賀ベッドスクールは西多賀養護学校として独立することになりました。五十年の年月を経て今があります。
 「はじめに道はなかった。ひとりが歩き、みんなが歩くことによって、道はできた」。『道』の表紙をめくるとそう書かれていました。当たり前ではなかったことが当たり前になり、次の問題が現れます。
 次に進む特別支援学校への道のりはいかんや。(杉)


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