今、福祉を問う (16) 近藤文雄

人間の発達段階

 障害者が真に幸せになるためには人間的に成長することが第一である、と述べたが、人間として成長する、とはどんなことであろうか。実は私がこんなことを云う背景には次のような図式が私の頭の中にあるからである。この図式は私が勝手に考えたものだから、どこまで他人に通用するかは疑問である。
 私は人間の発達段階を、その人の価値観の発達に応じて四つに分けてみた。第一の段階は、食欲とか性欲とかいった本能の満足だけを人生最大の喜びとしている人である。どうせこの世は酒と女だよ、と広言してはばからない人々がこの段階に属するが、その言葉を額面通りに受取ってよいかどうかは問題である。この段階から一歩も出ない人がいるとしたら、それは動物と同じレベルにあるということになるが、現実にそんな人がいるとは思えないからこれは理論上の段階と見てよかろう。
 第二の段階はごく普通の、物欲、名誉欲、権勢欲などを大切にする人々である。勿論前述の本能的欲求も持っているから、それらが錯綜して複雑な行動のパターンが現れる。本能は満たされるとそれ以上求めないが、物欲、権勢欲などは次々にエスカレートして際限がない。百万円もうかれば、千万円、一億、百億と止まる所を知らず、一生金の亡者で終るのである。権勢欲にも際限はない。古今東西の歴史は王朝の興亡、権勢の争奪で埋まっている。幾千万の民衆の血涙の犠牲の上に気築いた権勢の何と虚しいことか。もっと小市民的なレベルで見ても、他人を陥し入れ、自らの人格を傷けて得た地位や財貨が何になろう。中身のない名誉で他人はだませても自分自身はだませまい。
 人間は生まれつきもっと高尚な欲求を持っている。それは真善美を求める心である。第一、第二の段階に属する人も人間である以上この心は持っているが、二者択一を迫られると、この段階の人は本能や物欲などにた易く負けてしまうのである。第三の段階の属する人は、本能や物欲はもちろんあるが、少くともそれらよりは真善美の方が優位にあることをはっきり自覚しており、真善美の実現に真剣に努力する人である。その程度にも段階はあるが、その極致は学問のために生活のすべてを犠牲にして悔いない学者、人のため世のため自分のための命を捧げる義人、芸術のため俗世の毀誉褒貶は屁とも思わない芸術家などがそれである。
 第四の段階の人は、神のいる世界に住む人である。といっても、ご利益めあてに神に頼むのではなく、自分の全身全霊を神の手に委ね切っている本物の信者のことである。これらの人々は純潔そのものであるから、本能や物欲に惑わされることはない。かく云う私自身は、そんなこともあろうと漠然と想像する傍観者にすぎないが。
 このような人間の発達段階が障害者の幸せとどんな係わりがあるか。障害者が第一、第二の段階に止まっている限り、俗人の喜怒哀楽、愛憎の苦界から抜け出すことはできないし、障害は苦しみを増大する重荷となるであろう。第三の段階に達すれば、障害の及ぼす悪影響は薄れ、一段高い人間的生き方が可能となる。更に第四の段階に進めば、もはや障害の有無は問題外となり、人間として最高の生き方ができるようになるであろう。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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