今、福祉を問う (23) 近藤文雄

リサイクルの狙い

 知恵おくれの子に対する杉浦の考え方のアプローチの仕方は、一風変わっている。異常というのではなく、それこそ正常な考え方であはあるが、一般の人々がそれを見逃しているか、気付いていても重要視しないか、重視していても実行しない所に、彼は本腰を据えて取組んでいるのである。それを一言で云えば、障害者の自主性を育てるということである。それは障害者のみならず人間の教育や生き方の基本でありながらなおざりにされがちのものである。だから彼は殊更その点を徹底してやろうとしているのである。
 一般の考えでは、知恵おくれの子はどうせ考える力はないから、一から十まで指導者がお膳立てをして、その通りやらせるのが最も効率的である、とする。こんなやり方をすれば必然的に、指導に素直についてくる子はよい子で、反抗する子は悪い子だという評価の仕方が生れる。その結果、障害児の持っていたすばらしい芽は摘みとられ、この子には能力がないという烙印が押されるのである。
 杉浦はそうではない、と考える。知恵おくれの子もそれぞれ独自の考えを持ち、それを実現したいという強い欲求を持っている。もちろん、欲求の程度や種類は人によって異るが、どんな重度の子でも基本的には同じである。彼らの欲求を見つけ、自主性を引き出し、それに沿った指導をすれば彼らは見違える程いきいきしてくるのである。それは杉浦の単なる理論ではく彼が数年かかって知多市での実践活動の中で確認してきたことである。
 知多市で杉浦は在宅の知恵おくれの子たちを集めて、保護者やボランティアとともに作業場作りにかかった。彼は知恵おくれの子たちに向って君らは何がしたいのか、と聞くことから始めた。彼らはハッキリ働きたいという意思表示をした。仕事をするにはどうしたらよいか、どこかに仕事場を作ろう、そんな所ここにないがどうする。みんなで作ろう。あそこに工場の空家があるからそれを借りよう。あんなあばら屋をどうする。みんなで手入れして使えるようにしよう。という風に一つ一つ彼らの頭を通して手順を決めて行ったのである。工場の設計にもいろんな意見が出たが、専門家の目にも面白い案があった。これだけの手順を経るには随分時間と手間がかかったが、実はそこが肝心なとこであり、彼はそこに惜しみなくエネルギーを集中した。普通なら指導者が最初から案を出しその通りやらせる所であるが、このやり方と比べてみるとその成果には歴然たる差があった。
 いざ工場の改築工事をはじめてみると、それまで家では縦のものを横にもしなかった子がほこりまみれになって先頭に立って働いた。みんなの表情や動作が生き生きと輝くようになったのである。仕事の種類の選択や、利益の配分についてもすべて彼らの合議によって決定したが、その結果は予測をはるかに上回る程のものがあった。
 施設の形態が整うと経営は市に移管された。運営費を賄う都合からであった。机に向かって仕事をする所長が着任し在り来たりの運営が行われるようになった。杉浦は居所がなくなった。手塩にかけて育てた施設を離れて大阪に行きそれから太陽と緑の会に来たのである。
 お役所仕事ではできない障害者との生活を再び始めるためであった。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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